アレックス・ロドリゲス
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守備位置 | 三塁手 |
所属球団 | ニューヨーク・ヤンキース |
背番号 | 13 |
日本でのキャリア | なし |
アメリカでのキャリア | 1994- |
誕生日 | 1975年7月27日 |
身長 | 191 cm |
体重 | 101 kg |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
出身校 | ウェストミンスター・クリスチャン高校 |
年俸 | $22,708,525(2007年) |
出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク市 |
前所属球団 | テキサス・レンジャーズ |
MLBデビュー年 | 1994年7月8日 |
ニックネーム | A-Rod |
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アレックス・ロドリゲス (Alexander Emmanuel “Alex” Rodriguez, 1975年7月27日-)は、アメリカメジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキースの内野手 (三塁手、遊撃手)。背番号は13。ニューヨーク州出身。ニックネームはA-Rod。
目次 |
[編集] プロフィール
1975年7月27日、ニューヨークに生まれる。父親はビクター、母親はローデスで両親は靴屋を営んでいた。兄妹にジョセフとスージーがいる。4歳のときに家族はドミニカ共和国のサントドミンゴに移住。父親はそこでドミニカ共和国のマイナーリーグでキャッチャーをしており、息子のアレックスを度々試合に招いた。父親はそこで薬局を営むが、最終的にはフロリダのマイアミに落ち着く。8歳のときに両親は離婚。母親が女手一つで2つの仕事を掛け持ちし、アレックスを育てた。この頃から野球をやる傍ら、メジャーリーグに興味を持ち始める。お気に入りの選手はデール・マーフィーとキース・ヘルナンデス、それにカル・リプケン・ジュニアだった。彼がメジャーリーグデビューからしばらく付けていた背番号3はデール・マーフィーの背番号に、ポジションのショートはカル・リプケン・ジュニアにちなむ。
高校時代はバスケット・ボールではレギュラー、アメリカン・フットボールではクォーターバックとして多くの大学からスカウトの目に留まり、本業の野球では打率.422、本塁打6、52得点、42盗塁でオール・アメリカンに選ばれるなど、卓越した運動神経を見せた。
[編集] メジャーリーグ(シアトル・マリナーズ時代)
1993年マイアミ大学への入学書へサインをしていたがシアトル・マリナーズにドラフト1位(全米1位)指名され契約。翌年の1994年に18歳でメジャーリーグキャリアをスタートさせる。打撃、走塁、守備すべてにおいてトップクラスの成績を収めており、メジャーリーグ史上屈指のオールラウンドプレーヤーといわれる。シアトル在籍時には、メジャーリーグでもトップクラスのスラッガーでありながら守備負担の大きいショートストップを守るという新しいスタイルを確立した。1996年には首位打者を獲得するなど、めきめきとその頭角を現していった。1998年には、打率3割、打点100以上に加えて、メジャー史上3人目の40本塁打40盗塁を達成。メジャー屈指の、5ツールプレイヤーに成長した。
[編集] メジャーリーグ(テキサス・レンジャーズ時代)
2000年にはFA権を取得。紆余曲折の末、テキサス・レンジャーズが10年総額2億5200万ドル(06/03/19相場で293億円)という空前の条件で獲得する。A-Rodはメジャーでも屈指のプレイヤーに数えられ、かつ最高の将来性を持つ存在であったが、この超長期契約とあまりに高額な年俸には非難の声が少なからず上がった(なお代理人は辣腕で知られるスコット・ボラス氏であり、A-Rodの愛称は彼が当時移籍先にいた同じ姓のイバン・ロドリゲスと差別化してアレックスを売り出すために付けたものである)。
そして、この契約は結果的には失敗に終わる。2001年からテキサスにおいてMVPや3年連続ホームラン王を獲得するなどA-Rod個人は活躍を見せたもののチームは3年連続最下位となり、その高額年俸がチーム再建の足かせとなってしまった。また、自身も勝てるチームへの移籍を望んでいたため、2003年のシーズンオフにニューヨーク・ヤンキースにテキサスが年俸の一部負担をすることを条件にトレードされた(交換相手はアルフォンソ・ソリアーノ二塁手など)。トレード拒否条項が契約に盛りこまれていたもののニューヨークはA-Rodの出身地でもあり、むしろ相思相愛でのトレードとなったといえる。
[編集] メジャーリーグ(ニューヨーク・ヤンキース時代)
シアトル、テキサスではショートストップを守っていたが、ヤンキースにおいては名手でキャプテンであるデレク・ジーターの守備位置であったため、サードへコンバートされた。ヤンキースの背番号3はベーブ・ルースの永久欠番であったため、13番を選択。ヤンキース初年となった2004年こそ成績が落ち込んだものの、2005年には4度目のホームラン王とともに2度目のMVPを獲得。
2005年6月には、メジャーリーグ史上初めて20代で通算400号を達成。ハンク・アーロンの持つメジャーリーグ通算本塁打記録(755本)のホームラン記録を塗り替えるのは、ロドリゲスであろうともされている。
[編集] 特筆
[編集] メンタル面の弱さ?
ポストシーズンを経験したシアトル・マリナーズ、注目度の比較的低いテキサス・レンジャーズ両チーム在籍時代を通じて特段言われる事はなかったのだが、ヤンキースというメジャー屈指の人気球団に所属するようになってからは、そのメンタル面の弱さをしばしば指摘されるようになった。2004年は、チャンスで打てなかったり、リーグチャンピオンシップにおいても、必死になるあまり走塁中に一塁手が捕球したボールを無意識のうちに手ではたき落として物議をかもしたり、2005年のポストシーズンでは15打数2安打、打率はわずか.133に終わり、タイトル奪取失敗の戦犯としてマスコミに叩かれるなど、大舞台での精神的な弱さを露呈している。2006年も14打数1安打で、他にも成績が芳(かんば)しくない選手は多いものの(ゲイリー・シェフィールド:12打数1安打、ジェイソン・ジアンビ:8打数1安打、ロビンソン・カノ:15打数2安打など)地区シリーズ(アメリカン・リーグ・ディビジョン・シリーズ)敗退の一因とされた。(打順も第2戦は6番、第4戦は8番と降格された。)また、2004年のアメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズから通算46打数5安打、打率.109とポストシーズンの成績はレギュラーシーズンのものと比較できないほど低迷している[1]。
[編集] 彼がいるチームは優勝できない?
第1回ワールド・ベースボール・クラシックでアメリカがまさかの二次リーグ敗退を喫したとき、敗因に彼の存在を挙げた記者がいた。ロドリゲスはシアトル・マリナーズ時代は1995年にポストシーズンを経験したもののワールドシリーズには出場できず、テキサス・レンジャーズではポストシーズンすら出られずに終わった。近年の1998年から2000年までの3年連続を含む通算26回の優勝回数を誇るニューヨーク・ヤンキースに移籍してからも以降2006年まで、ワールドシリーズ出場すらままならないでいる。
[編集] その他
- 一番の好物は寿司である。
- 入場時にかける曲はLinkin Park&Jay-Zの『Numb/Encore』。理由はJay-Zが親友のうちの一人であるため。
- 食事はプロテインのシェイクを含めて6回取る。
- 尊敬する現役プレーヤーはロジャー・クレメンス(2006年時点)で、最も仲のいいプレーヤーはテキサス・レンジャースのマイケル・ヤング[2]。
- かつてはヤンキースのデレク・ジーターと親友と言われる仲であったが、2億5200万ドルの巨額契約を結んだ2001年にエスクワイア誌のインタビューでジーターを”No.2ヒッター(インパクト不足の選手)”と呼んだ事で関係が急速に冷え込み、今でもチームメートとしては全く問題ないものの、当時ほどの仲ではないと語っている[3][4]。
[編集] 略歴
- 1993年 マリナーズにドラフトで1位指名。
- 1996年 打率.358、36本塁打、123打点という好成績で、21歳の若さで首位打者を獲得。
- 1998年 史上3人目の40本塁打40盗塁を達成。
- 2001年 10年間で総額2億5200万ドルという破格の契約でレンジャーズに移籍。この年から3年連続で本塁打王を獲得。
- 2003年 チームは4年連続の最下位になったが、ア・リーグのシーズンMVPを獲得。最下位チームからのMVP獲得は史上2人目。
- 2004年 テキサスが年俸の一部負担することを条件にアルフォンソ・ソリアーノらとの交換トレードで、ヤンキースに入団。
- 2005年 4度目のホームラン王とともに、2度目のア・リーグのシーズンMVPを獲得。
- 2006年 ワールド・ベースボール・クラシックに米国代表として出場。日本戦で阪神タイガースの藤川球児からサヨナラタイムリーヒットを打った。
[編集] 獲得タイトル
- アメリカンリーグMVP 2回:2003年、2005年
- 首位打者 1回:1996年(.358)
- 本塁打王 4回:2001年~2003年、2005年
- 打点王 1回:2002年
- シルバースラッガー賞 8回:1996年,1998年~2003年(以上遊撃手部門)、2005年(三塁手部門)
- ハンク・アーロン賞 3回:2001年~2003年
- ゴールドグラブ賞 2回:2002年、2003年
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | SEA | 3 | 17 | 54 | 4 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 20 | 3 | .204 | .241 | .204 |
1995年 | SEA | 3 | 48 | 142 | 15 | 33 | 6 | 2 | 5 | 19 | 4 | 42 | 6 | .232 | .264 | .408 |
1996年 | SEA | 3 | 146 | 601 | 141 | 215 | 54 | 1 | 36 | 123 | 15 | 104 | 59 | .358 | .414 | .631 |
1997年 | SEA | 3 | 141 | 587 | 100 | 176 | 40 | 3 | 23 | 84 | 29 | 99 | 41 | .300 | .350 | .496 |
1998年 | SEA | 3 | 161 | 686 | 123 | 213 | 35 | 5 | 42 | 124 | 46 | 121 | 45 | .310 | .360 | .560 |
1999年 | SEA | 3 | 129 | 502 | 110 | 143 | 25 | 0 | 42 | 111 | 21 | 109 | 56 | .285 | .357 | .586 |
2000年 | SEA | 3 | 148 | 554 | 134 | 175 | 34 | 2 | 41 | 132 | 15 | 121 | 100 | .316 | .420 | .606 |
2001年 | TEX | 3 | 162 | 632 | 133 | 201 | 34 | 1 | 52 | 135 | 18 | 131 | 75 | .318 | .399 | .622 |
2002年 | TEX | 3 | 162 | 624 | 125 | 187 | 27 | 2 | 57 | 142 | 9 | 122 | 87 | .300 | .392 | .623 |
2003年 | TEX | 3 | 161 | 607 | 124 | 181 | 30 | 6 | 47 | 118 | 17 | 126 | 87 | .298 | .396 | .600 |
2004年 | NYY | 13 | 155 | 601 | 112 | 172 | 24 | 2 | 36 | 106 | 28 | 131 | 80 | .286 | .375 | .512 |
2005年 | NYY | 13 | 162 | 605 | 124 | 194 | 29 | 1 | 48 | 130 | 21 | 139 | 91 | .321 | .421 | .610 |
2006年 | NYY | 13 | 154 | 572 | 113 | 166 | 26 | 1 | 35 | 121 | 15 | 139 | 90 | .290 | .392 | 523 |
通算成績 | 1746 | 6767 | 1358 | 2067 | 364 | 26 | 464 | 1347 | 241 | 1404 | 820 | .305 | .386 | .573 |
[編集] 外部リンク
2006 ワールド・ベースボール・クラシックアメリカ合衆国代表 |
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1 マイケル・ヤング | 2 デレク・ジーター | 3 ケン・グリフィー・ジュニア | 5 マット・ホリデー | 6 ヴァーノン・ウェルズ | 7 ジェフ・フランコーア | 8 マイケル・バレット | 10 チッパー・ジョーンズ | 13 アレックス・ロドリゲス | 18 ジョニー・デイモン | 19 アル・ライター | 20 ヒューストン・ストリート | 21 ランディ・ウィン | 22 ロジャー・クレメンス | 23 マーク・ティシェイラ | 24 ブライアン・シュナイダー | 25 デレク・リー | 26 チェイス・アトリー | 32 チャド・コルデロ | 33 ジェイソン・ヴァリテック | 35 ドントレル・ウィリス | 36 ジョー・ネイサン | 38 ゲーリー・マジュースキー | 39 ダン・ウィーラー |40 ブライアン・フエンテス | 45 ジェイク・ピーヴィー | 50 マイク・ティムリン | 54 ブラッド・リッジ | 59 トッド・ジョーンズ | 61 スコット・シールズ |
監督 バック・マルティネス | 項 | |