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ルイ7世(若年王)(Louis VII le Jeune、1120年-1180年9月18日、在位1137年 - 1180年)はフランス国王でルイ6世の子。
[編集] 生涯
サン・ドニ修道院に育ち、院長シュジェの教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王太子であったという。アキテーヌ女公アリエノールと1137年に結婚する。1147年、クレルヴォーのベルナルドゥスの勧誘で知られる第2回十字軍に参加し、ダマスカスの攻防戦に失敗する。1152年に帰国して不貞をはたらいた妃を離縁した(実際の名目は近親婚)。 彼女がアンジュー伯アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と再婚したために1154年にアキテーヌ領を失い、長らくヘンリー2世と争った(1157年 - 1180年)。実際の戦闘はそれほどなかったが、西フランスの諸地方がイングランド王に支配されることになり、英仏間の百年戦争の遠因となる。ヘンリー2世の迫害を受けたカンタベリー大司教トマス・ベケットを保護し、大臣であるサン・ドニ修道院長シュジェールによってパリのノートルダム大聖堂が1163年に着工。フランス王国最初の王令を発布し、王室の修史事業の発端が始められるのも彼の治世であった。「ルイ7世には武人としても政治家としても非凡なところは何もなかった。そのような君主のもとでの王権の増大は、ますます特徴的である」というのは、歴史家ピレンヌの評価である。
アリエノールとの離婚後、カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘コンスタンスと結婚し、2女をもうけた(娘の1人はリチャード獅子心王の婚約者だったアレ・ド・フランス)。2度目の妻とは死に別れ、男子のいない王は、再度シャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルと結婚した。元王妃アリエノールとの間にできた娘マリーがティボー2世の息子アンリ1世に嫁いでいたため、娘の義理の妹と結婚したことになる。3度目の王妃アデルとの間に、待望の男子フィリップ(フィリップ2世)が生まれた。
[編集] 逸話
かっての妻であったアリエノールは、「王と結婚したと思っていたら修道士だった」と述べており、また、一人息子のフィリップ2世が病気になった時、ヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖トマス(トマス・ベケット)の祠に病気治癒を祈願するため、フランス王で初めてイングランドを訪れている。これらの逸話を見ても信心深い王だったことが分かる。
[編集] 子女
- 王妃アリエノール
- 1137(流産)
- マリー(1145 - 1198) - シャンパーニュ伯アンリ1世妃
- アリックス(1150 - 1183) - ブロワ伯ティボー5世妃
- 王妃コンスタンス
- マルグリート(1158 - 1197) - アンジュー伯ヘンリー妃、ハンガリー王ベーラ3世妃
- アリース(アデライード)(1160 - 1220) - ヴェクセン女伯