インドの歴史
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インドの歴史(History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について詳述する。
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[編集] インダス文明・ガンジス文明
[編集] インダス文明
詳細はインダス文明を参照
紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は不明だが、紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたドラヴィダ人によるという考えが有力である。パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。紀元前1800年頃に滅亡したとされ、その要因として環境問題などが指摘されている。後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などを挙げることができる。
[編集] 前期ヴェーダ時代
その後、前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住し、先住民を征服した。アーリヤ人の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかった。
アーリヤ人は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、アーリヤ人と先住民の混血も進んでいった。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。
[編集] 後期ヴェーダ時代
[編集] 十六大国
詳細は十六大国を参照
前1000年頃より、アーリヤ人はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。この二国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破した。紀元前4世紀後半、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、マウリヤ朝が成立した。
[編集] ウパニシャッド哲学と新宗教
ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中、バラモンに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に仏教やジャイナ教が創始された。
[編集] 古代マウリヤ帝国
[編集] マウリヤ朝
詳細はマウリヤ朝を参照
前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、前3世紀におけるアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。官僚制が整備され、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、前2世紀に滅亡した。
[編集] クシャーナ朝
詳細はクシャーナ朝を参照
マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝がインダス川流域に進出し、プルシャプラを都としてカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。3世紀、ササン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
[編集] サータヴァーハナ朝と古代交易網
詳細はサータヴァーハナ朝を参照
2世紀になると、デカン高原のサータヴァーハナ朝などがローマ帝国との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が出土しており、当時の交易が活況だったことを裏付けている。また、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。
[編集] グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立
[編集] グプタ朝と古典文化の黄金期
詳細はグプタ朝を参照
4世紀、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、北インドを統一した。チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎えたが、その後は中央アジアからのエフタルの侵入に悩まされ、6世紀半ばに滅亡へと追い込まれた。
この時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガドゥータ』などの作品を残した。
また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。一方、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、ナーランダ僧院が建てられて教典研究が進められた。しかし、都市部の寄進などによって教団が成り立っていた仏教は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。
[編集] ヴァルダナ朝とラージプート時代
詳細はヴァルダナ朝を参照
7世紀、カナウジを都として、ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)がヴァルダナ朝を創始した。彼の治世に唐僧の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院から仏典を持ち帰った。
これらの古代王朝の後、7世紀からはラージプートの諸王朝が分立。エローラ石窟群やカジュラホなどが建設された。
[編集] インドのイスラーム化と南インド
[編集] ガズナ朝・ゴール朝の侵入
10世紀後半、サーマーン朝(中央アジアの王朝)のマムルークであったアルプテギンがアフガニスタンで自立し、ガズナ朝を建てた。彼らはたびたび北インドへ侵入した。ガズナ朝にかわり台頭したゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図った。しかし、ゴール朝のマムルークであったアイバクが、1206年にデリーで奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年、デリーを都とした五王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝と称する。
[編集] デリー・スルタン朝
13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラーウッディーン・ハルジーとトゥグルク朝のムハンマド=ビン=トゥグルクの治世には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。
この頃、北インドではスーフィー(イスラーム神秘主義者)の活動によって、徐々にイスラームが普及していった。
[編集] 南インド
一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。
[編集] ムガル帝国
詳細はムガル帝国を参照
[編集] ムガル帝国の盛衰
16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、最後のデリー・スルタン朝とされるロディー朝の君主イブラヒム・ロディーをパーニーパットの戦い(1526年)で破ってムガル帝国を建てた。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。
文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。
[編集] 英仏の進出と植民地抗争
17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。両国は東南アジアでアンボイナ事件で衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布をイギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を図っており、利害が対立した両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続けた。
[編集] イギリスによる植民地化
18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
[編集] 被植民地時代
[編集] 英領インド帝国
イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
[編集] 二度の世界大戦とインド
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンジーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。
[編集] 独立
戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはネルーが就任した。長期にわたって国民会議派が政権を担ったが、1990年代よりヒンドゥー至上主義の立場をとる人民党が勢力を伸ばし政権を獲得した。
パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題と東パキスタンを原因として、三度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。
[編集] 現代
2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3500km)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。