エイドリアン・ベルトレ
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エイドリアン・ベルトレ(Adrian Perez Beltré, 1979年4月7日 - )はドミニカ共和国出身のアメリカ・メジャーリーグ、シアトル・マリナーズの右投げ右打ちの内野手(三塁手)。
1994年(当時16歳)にドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約、ドミニカリーグで18歳にして二冠王になるなど早々にその才能を示す。その後もマイナーリーグで攻守にわたり活躍を見せ、1998年に19歳でメジャー昇格を果たす。メジャー1年目の成績は77試合の出場で打率.215、7HR、22打点、13失策、守備率.925というものであった。この年のシーズンオフにドミニカのウィンターリーグに参加しMVPになる活躍を見せたベルトレは、翌年からドジャースの三塁を定位置として確保することになる。恵まれた体格、強烈なパワー、センス十分の打撃、加えて守備も上手く、「バリー・ボンズに匹敵する才能の持ち主」ともいわれ、フロントや地元ファン、マスコミは大きな期待を寄せた。しかし、いざシーズンに入ると152試合で打率.275、15HR、67打点と期待に沿う内容には遠く、さらに定評のあった守備でも29失策と不安定なものに終わってしまった。
2000年シーズンは打率.290、20HR、85打点を記録し、ファンにとっては物足りない数字ではあるものの本塁打は1つの大台に乗せ打率も3割が見えてきたため、周囲は来期の爆発に期待を寄せた。ところが2001年はケガに見舞われたこともあってか打率.265、13HR、60打点に終わると、その後も2002年は打率.257、21HR、75打点、2003年は打率.240、23HR、80打点と、なかなか才能を発揮できないどころか、守備でも一時期精彩を欠くなど苦難が続き、いつしか「未完の大器」と呼ばれるようになった。しかしそれでも監督以下関係者は潜在能力が高いと信じてまだ若いベルトレを使い続け、ファンも活躍する日が来ることを信じて見守った。
2004年、4月6日に史上36人目の25歳以下での100号本塁打を記録すると、年間で7度の複数本塁打、3本のグランドスラム、インターリーグでメジャー最多タイの7本塁打、8月だけで13本塁打を打ち月間MVPになり、打率.334、48HR、121打点の活躍でドジャースの地区優勝に貢献した。ベルトレが記録した48本塁打は、三塁手としては1980年のマイク・シュミット(フィラデルフィア・フィリーズ)に並ぶメジャータイ記録であった。また守備も安定し、ゴールドグラブ賞受賞はならなかったが、メジャー屈指の守備を誇る三塁手でこの年のゴールドグラブ賞受賞者であるスコット・ローレン(セントルイス・カージナルス)を上回る守備率を記録した。その後、オフにFAとなったベルトレは大物FA選手の一人として総額6500万ドルの5年契約でシアトル・マリナーズへ移籍。不振が続くチームの救世主として期待された。 ところが、マリナーズ1年目の成績は156試合で打率.255、19HRと2003年以前の水準に逆戻り、チームも2年連続の最下位に終わってしまった。
2006 ワールド・ベースボール・クラシックのドミニカ共和国代表として活躍し、三塁手のベストナインに選出された。このため、レギュラーシーズンでの活躍も期待されたが、またしてもファンの期待を裏切る低調な成績に終わり、不振のため2番を打つことすらあった。
[編集] 選手としての特徴
- なんでもかんでも打ちにいくタイプの選手で、四球数が少ない。ただ、その傾向が顕著になり始めたのは2001年くらいからで、ホームラン王を獲った2004年だけは例外である。
- かつては守備も上手くはなく、総合的に見て三塁手としての評価は低かった。ただ、近年の守備力の向上には目覚しいものがあり、ゴールドグラブ賞を獲るに値する守備力を身に付けている。
- 2004年だけ成績が伸びた事についてステロイド(ドーピング)の助けを借りたものではないかという疑惑も浮上した。ベルトレー本人は同年は既に薬物使用を取り締まる動きが加速していたと主張し、マリナーズの監督であるマーク・ハーグローブ氏も、ベルトレーの薬物使用疑惑は否定した。
[編集] 獲得タイトル・記録
[編集] 年度別打撃成績
年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
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1998年 | LAD | 77 | 195 | 18 | 42 | 9 | 0 | 7 | 22 | 3 | 37 | 14 | .215 | .278 | .369 |
1999年 | LAD | 152 | 538 | 84 | 148 | 27 | 5 | 15 | 67 | 18 | 105 | 61 | .275 | .352 | .428 |
2000年 | LAD | 138 | 510 | 71 | 148 | 30 | 2 | 20 | 85 | 12 | 80 | 56 | .290 | .360 | .475 |
2001年 | LAD | 126 | 475 | 59 | 126 | 22 | 4 | 13 | 60 | 13 | 82 | 28 | .265 | .310 | .411 |
2002年 | LAD | 159 | 587 | 70 | 151 | 26 | 5 | 21 | 75 | 7 | 96 | 37 | .257 | .303 | .426 |
2003年 | LAD | 158 | 559 | 50 | 134 | 30 | 2 | 23 | 80 | 2 | 103 | 37 | .240 | .290 | .424 |
2004年 | LAD | 156 | 598 | 104 | 200 | 32 | 0 | 48 | 121 | 7 | 87 | 53 | .334 | .388 | .629 |
2005年 | SEA | 156 | 603 | 69 | 154 | 36 | 1 | 19 | 87 | 3 | 108 | 38 | .255 | .303 | .413 |
2006年 | SEA | 156 | 620 | 88 | 166 | 39 | 4 | 25 | 89 | 11 | 118 | 47 | .268 | .328 | .465 |
通算 | 9年 | 1278 | 4685 | 613 | 1269 | 251 | 23 | 191 | 686 | 76 | 816 | 371 | .271 | .328 | .457 |
2006 ワールド・ベースボール・クラシックドミニカ共和国代表 |
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15 サロモン・トーレス | 33 ホルヘ・ソーサ | 35 ダニエル・カブレラ | 38 ダマソ・マーテ | 40 バートロ・コロン | 41 フランシスコ・リリアーノ | 43 ミゲール・バティスタ | 47 ロビンソン・テヘダ | 51 ユーデ・ブリトー | 52 デュアナー・サンチェス | 53 フリアン・タバレス | 55 オダリス・ペレス | 56 フェルナンド・ロドニー| 15 ホワン・ブリトー | 22 アルベルト・カスティーヨ | 31 ロニー・ポーリノ | 2 プラシド・ポランコ | 5 アルバート・プホルス | 7 ペドロ・フェリス | 9 ホセ・レイエス | 10 ミゲール・テハダ | 20 ロニー・ベリアード | 29 エイドリアン・ベルトレ | 34 デービッド・オルティズ | 4 ウィリー・タベラス | 8 ルイス・ポローニャ | 18 モイセズ・アルー | 19 ホワン・エンカーナシオン | 26 ウィリー・モー・ペーニャ | 27 ブラディミール・ゲレーロ |
監督 マニー・アクタ | 項 | |