エミール・シオラン
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エミール・シオラン(Emil Cioran/(仏) Émile Michel Cioran, 1911年4月8日 - 1995年6月20日)は、ルーマニアの作家・思想家。
ハンガリーのトランシルバニア地方、セベン県レシナール Resinár(現在ルーマニア、シビウ県レシナリ Răşinari:シビウの南方にある)に、ルーマニア人のギリシャ正教司祭の息子として生まれる。姓はルーマニア語ではチョラン、ハンガリー語では Csorán (チョラーン)となる。ブカレスト、ベルリンなどに住み、パリで没した。
ブカレスト大学に学び、そこで1928年、ウジェーヌ・イヨネスコ、ミルチャ・エリアーデと出会う。3人は終生の友人となった。同時に、彼はルーマニアの思想家ペトレ・ツツェア Petre Ţuţea とも長きにわたり親交を深めた。彼はメンバーにこそならなかったが、鉄衛団によって推進された思想にも興味を持ち始めた。
鉄衛団は民族主義的イデオロギーを持つ組織(実際にはもっと複雑)だった。彼は鉄衛団の暴力的な方法論には賛成してはいなかったとされるものの、第二次世界大戦の初期まで彼らを支持した。彼は後に、この組織に対する「プラトニックラブ」と、民族主義思想を捨て去り、それに傾倒した自分の感情に対して頻繁に後悔・良心の呵責の念を表した。
批評家たちの中には、戦間期のルーマニアの民族主義運動への政治思想的参加に対する彼の自責の念が、後の作品(穏やかかつのんびりとした批評)を特徴付ける悲観主義の源となったと見る者もいる。また、その悲観主義は彼の子ども時代の出来事に遡っている(1935年に彼の母親は彼に対して、通俗的な心理学をもとにして、もし彼がそんなに不幸せになるのだと知っていれば、生まれる前に堕ろしたのにと言った、と伝えられている)と見る者もいる。
しかしながら、シオランの「悲観主義」(実際、彼は懐疑主義、ニヒリズムでさえあった)は、ただ彼の深淵を覗き込むだけにとどまらない。彼が自ら発見し、彼自身の独特な物腰の上品さをもって、悲劇的な賢明さと共に、楽しげに存在し続けることが可能である。すなわち、それはそんなに単純な起源に遡ることで解決されるような悲観主義ではない。単なる起源そのものは疑問視されるということである。
シオランの母親が彼に堕胎の話をした時、それは彼を妨げるものとはならなかったが、人間存在の本性についての洞察を導く契機となる強烈な印象を彼に植え付けた。「私の存在は偶然に過ぎない。なぜそんなに全てを深刻にとらえるのか?」と、全てのものに実体などないのだと警告しつつ、彼はその事件を振り返って後に述べた。
1937年、ブカレストにあるフランスの研究機関から奨学金を得て、彼はパリに行った。そこで彼はその後の人生を送った。彼は「私は知識人としての自分の位置付けを最もよく表現できる国籍というものを持たない」という名言を残した。彼の初期の仕事はルーマニアで、彼の後半の仕事はフランスで行われ、そのほとんどはアフォリズムと短いエッセイの形式を取った。
ニーチェ、ショーペンハウアー、オスヴァルト・シュペングラー、仏教から大きな影響を受け、ドイツの作家のエルンスト・ユンガーとは最後まで親交があった。
ウイリアム・H・ガスは、シオランの仕事を「現代的な疎外感・不条理・退屈・馬鹿馬鹿しさ・堕落・歴史の過酷さ・俗悪な変化・苦悩としての気付き・病んだ理性をテーマに据えた哲学的な恋愛物語」と評した。
[編集] 著作
- ルーマニア語による作品(邦訳はフランス語からの訳)
- 1934年 Pe culmile Disperǎri 金井裕訳『絶望のきわみで』紀伊國屋書店、1991年、ISBN 9784314005593
- 1936年 Cartea amăgirilor 金井裕訳『欺瞞の書』法政大学出版局、1996年、ISBN 9784588004834
- 同年 Schimbarea la faţă a României
- 1937年 Lacrimi şi Sfinţi 金井裕訳『涙と聖者』紀伊國屋書店、1990年、ISBN 9784314005333
- 1940年 Amurgul gândurilor 金井裕訳『思想の黄昏』紀伊國屋書店、1993年、ISBN 9784314006002
- 1940年-1944年 Breviarul învinşilor 金井裕訳『敗者の祈祷書』法政大学出版局、1996年、ISBN 9784588005060
- 1991年 Îndreptar pătimaş
- 1996年 Mon pays/Ţara mea - フランス語とのバイリンガル版
- フランス語による作品
- 1949年 Précis de décomposition 有田忠郎訳『崩壊概論』国文社、1975年
- 1952年 Syllogismes de l'amertume 及川馥訳『苦渋の三段論法』国文社、1976年
- 1956年 La Tentation d'exister 篠田知和基訳『実存の誘惑』国文社、1975年。1993年、ISBN 9784772001588
- 1960年 Histoire et Utopie 出口裕弘訳『歴史とユートピア』紀伊國屋書店、1967年、ISBN 9784314000376
- 1964年 La Chute dans le temps 金井裕訳『時間への失墜』国文社、1976年。改訂版、2004年、ISBN 9784772001595
- 1969年 Le Mauvais Démiurge 金井裕訳『悪しき造物主』法政大学出版局、1984年、ISBN 9784588001390
- 1970年 Valéry face à ses idoles 出口裕弘、及川馥、原ひろし訳『深淵の鍵』国文社、1977年、ISBN 9784772001603、に収録
- 1973年 De l'inconvénient d'être né出口裕弘訳『生誕の災厄』紀伊國屋書店、1976年、ISBN 978-4314001472
- 1977年 Essai sur la pensée réactionnaire. À propos de Joseph de Maistre, Fata Morgana 邦訳は上記『深淵の鍵』に収録 - 1957年にメストル著作集の序文として書かれたもの。
- 1979年 Écartèlement 金井裕訳『四つ裂きの刑』法政大学出版局、1986年、ISBN 9784588001840
- 1986年 Exercices d'admiration 金井裕訳『オマージュの試み』法政大学出版局、1988年、ISBN 9784588002458
- 1987年 Aveux et Anathèmes 出口裕弘訳『告白と呪詛』紀伊國屋書店、1994年、ISBN 9784314006941
- 1991年 L'Ami lointain. Paris Bucarest
- 1995年 Entretiens 金井裕訳『シオラン対談集』法政大学出版局、1998年、ISBN 9784588005862
- 1997年 Cahiers, 1957-1972 金井裕訳『カイエ』法政大学出版局、2006年、ISBN 9784588150456
- 草稿
シオランの愛人シモーヌ・ブエの死後、シオランが書いた約30冊に上る草稿ノートが発見された。草稿には1972年以降に書かれた日記も含まれており、『カイエ』以降の思索を明らかにするものとして注目される。これらの草稿ノートは2005年12月に競売にかけられたが、パリ控訴院の決定により売買を差し止められた。現在も裁判が続行中である。
[編集] Aphorisms from Hung, Drawn, and Quartered (1983年)(抜粋)
- 「他の人々のことをどう考えるか? 私はこの問いを、新しい知人ができる度に自分に投げかける。私たちが存在するということ、そして、存在に同意するということは、本当に奇妙なことなのである。」
- 「存在は剽窃である。」
- 「『キリストの受難について考える時はいつでも、私は嫉妬の罪を犯している』--シモーヌ・ヴェイユがプライドを賭けて最も偉大なる聖人に対抗する時、私は彼女を愛する。」
- 「この夢の中で、私は自分が軽蔑する誰かに媚びを売っていた。目が覚めて、今まで私が犯してきたいかなる卑劣な罪よりも、はるかに大きな自己嫌悪が私を襲った……。」
- 「真の道徳的な上品さは、自分を守るための栄光をいかに隠すかという技の中にあるのだ。」
- 「我々は後期のニーチェを酷評すべきだ。彼は書く時にあまりにも息切れしている。そこには休息というものがない。」
- 「『何もない』ということが、そんなことを言うに値しない哲学者たちに濫用されることで、その価値を下げているのは、何と嘆かわしいことであろうか!」
- 「自尊心のある人間は、国にしばられることはない。祖国なぞ監獄のようなものなのだから……。」
- 「思い違いが世界を生じさせ、それを維持する。つまり、我々は一方の世界を破壊することなくして、もう一方の世界を破壊することはできないのだ。私が毎日行うことはそのどちらかなのだ。明らかに無駄な作業だ。私は翌日には全てを白紙に戻して一から始めなければならないのだから。」
[編集] 外部リンク
- Cioran.eu - シオランに関する多言語リンク集。
- To Infinity And Beyond - 『スパイク・マガジン』(Spike Magazine)のシオラン作品特集。