エリザベス・バウエス=ライオン
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エリザベス(Her Majesty Queen Elizabeth The Queen Mother, Elizabeth Angela Marguerite, Windsor, 1900年8月4日 - 2002年3月30日)は、
現女王エリザベス2世の母(王大后)。ストラスモア伯爵の娘で、エリザベス・バウエス=ライオン(The Lady Elizabeth Bowes-Lyon)は結婚前の名。夫ジョージ6世の即位前の地位はヨーク公爵夫人(Her Royal Highness The Duchess of York)である。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
エリザベス・バウエス=ライオンはグラームス男爵(のちのストラスモア伯爵)クロード・ジョージとその夫人(もとの名:ニナ・セシリア・キャヴェンディッシュ・ベンチック)の四女。ロンドンの家に生まれたと報じられているが定かではない。ハートファードシャイルのヒッチンやセントポールズ・ウォルデン・ベーリで生まれたという記録もあり、この記述が様々な噂を引き起こした。評論家の中には、エリザベスが兄弟や親に酷似しなかったことから、実母がウェールズの家政婦であると主張する者もいる。養子説や労働者階級の女子の双子説もあるが、現在では否定的な見方が強い。
エリザベスは長くセントポールズ・ウォルデン・ベーリやグラームス・キャッスル(父のスコットランドの伝来の生家)に住んだ。
エリザベスが14歳の時、第一次世界大戦が勃発、ブラック・ウォッチ連隊士官であった兄ファーガスがドイツ軍との戦闘で戦死するという悲劇にみまわれた。
[編集] ヨーク公アルバートとの結婚
1921年にジョージ5世の次男ヨーク公アルバートがエリザベスにプロポーズした時、彼女はそれを断った。アルバート王子は他の女性とは結婚する意志がないことを家族に告げたので、母メアリー王妃はグラーミスにエリザベスを訪ねた。王妃はアルバートのライバル、モレー伯爵を海外に派遣するなど、エリザベスとの結婚に尽力した。王妃にも気に入られたエリザベスは3度目のプロポーズで結婚を受諾した。アルバート王子は社交界の花形だった兄、後のエドワード8世とは対照的に病弱で内向的な性格だったが、大らかな性格のエリザベスと出会ったことで少しずつ改善されていった。
1923年4月26日にエリザベスとアルバートはウェストミンスター寺院で結婚した。エリザベスはヨーク公夫人と呼ばれることになった。ハネムーンはサリー州の庄園、及びスコットランドだった。1926年に長女エリザベス(のちのエリザベス2世)が生まれ、4年後、次女マーガレットが誕生した。なお、2王女とも帝王切開により出産している。帝王切開で第2子を生むことがないに等しかった時代に(母子ともに危険にさらすとされた)、非常に勇気のいることだった。
[編集] 王妃時代
1936年1月30日にジョージ5世が崩じたため、アルバートの兄である王太子エドワードがエドワード8世として即位した。しかしエドワード8世は、離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、議会と対立。結局、同年12月にエドワード8世はシンプソン夫人との結婚を選択して退位したため、アルバートがジョージ6世として即位、エリザベスは王妃となる。翌1937年5月12日に戴冠式が行われた。
内気なアルバートは譲位されることを聞き及んだ時に泣いたという。エリザベスは夫の性格に対するその重責を案じた。また、ジョージ6世が若くして急逝した原因の1つに、身体が生まれつきあまり頑丈ではないのに王位を継ぎ、心身とも疲労したことがあるとして、エドワード8世とシンプソン夫人を終生許さなかったという。
1939年6月、ジョージ6世とエリザベス王妃はアメリカ合衆国、カナダを訪問している。
第二次世界大戦中、ジョージ6世とエリザベス王妃は、イギリスの抗戦の象徴とされた。ドイツ軍の激しい空襲を受ける中、夫妻はロンドンから避難することを拒み、国民の慰安に尽力した。V2ロケットの直撃でバッキンガム宮殿が被災した時も、「これでイーストエンド(下町の低所得層の多い地区)の人々と同じ境遇になれたかしらね」と、超然としていた事を知らされ、ヒトラーが慄然とした話は有名である。ジョージ6世やエリザベス王妃がイギリスの士気に多大な影響を与えた為に、エリザベス王妃を『ヨーロッパで最も危険な女性』と評したという。
[編集] 王太后時代
1952年2月6日に、ジョージ6世は肺癌で亡くなった。これにより、エリザベスは王太后(HM Queen Elizabeth The Queen Mother)となった。この称号が選ばれたのは、即位した娘エリザベス2世女王(HM Queen Elizabeth II)とあまりに近かったので、区別する必要があったからである。大衆の間では、王太后(The Queen Mother もしくは The Queen Mum)と呼ばれるようになった。
公務で忙しいながらも、王太后はスコットランドのキャッスル・オブ・メイの修築を監修し、後にお気に入りの別邸とした。また、この頃から競馬にも興味を持ち、アスコットなど競馬場にしばしば姿を見せたが、公務をおろそかにすることはなかった。外遊も頻繁に行い、英国と諸外国との親善に大いに貢献した。
2002年3月30日、エリザベス王太后は、ウィンザー城で101歳で亡くなった。前年末から呼吸器系を患っていたが、母の面倒をよく看ていた次女のマーガレット王女が同年2月に亡くなったことを深く哀しんでおり、これにより著しく健康を損なったという。また、彼女は王家史上に残る長命であり、その誕生日は慶祝の節になったほどで、彼女の存在そのものが、英国王室の人気の源だったとも言われている。死してなお、その人気は高い。
なお、英国王室最長寿は、グロスター公爵夫人アリス妃の102歳(2004年歿)。
[編集] その他
- グレートブリテン王国成立以降では初めての、同国出身の王妃である。合同以前を含めても、夫ジェームズ2世の即位以前に死去したアン・ハイド、統治女王でもあったメアリー2世を除けば、イングランドではヘンリー8世の最後の妃キャサリン・パー、スコットランドではジェームズ4世の妃マーガレット・テューダー(イングランド人を含める場合)までさかのぼることになる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Official memorial site for HM Queen Elizabeth, The Queen Mother
- Remember This - An Elegy on the death of HM QUEEN ELIZABETH,THE QUEEN MOTHER by Andrew Motion, Poet Laureate, at the BBC News website.
- Looksmart - Queen Elizabeth, Queen Mother directory category
- Open Directory Project - Elizabeth, the Queen Mother directory category
- Yahoo - Queen Elizabeth the Queen Mother directory category
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