ギド・ブッフバルト
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ギド・ブッフバルト(Guido Buchwald、1961年1月24日 - )は、ドイツ・ベルリン生まれの元プロサッカー選手。元ドイツ代表。Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズ監督(2004年 - 2006年)。身長188cm、体重88kg。 ドイツ代表として1990年ワールドカップ優勝を経験。
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[編集] 略歴
1978年シュトゥットガルト・キッカーズに入団、旧西ドイツ代表ユースに選出。1983年-1984年シーズンにドイツ・ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトでデビュー。このシーズン、34試合に出場してリーグ優勝に貢献し、1993年-1994年シーズンまで同クラブに在籍。元西ドイツ代表デビューは1984年5月22日。代表通算76試合に出場、4得点。ちなみに、キッカーズ時代のポジションはFWであった。このためか、後の浦和時代にも機を見ては前線へ上がり、シュートを放つシーンが何度も見られた。
大柄な選手の多いドイツ代表においてもひときわ屈強な選手で、クラブ・代表ではディフェンダーとして活躍した。1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では直前で代表から外され悔しい思いをしたが、1990年のイタリア大会の決勝戦ではアルゼンチンのディエゴ・マラドーナを完封。西ドイツの3度目の優勝に貢献した。この時のチームメイトでシュトゥットガルトでも同僚だったユルゲン・クリンスマン(前ドイツ代表監督)とは、無二の親友である[1]。
1994年のFIFAワールドカップアメリカ大会を最後にドイツ代表を引退し、来日。Jリーグ・浦和レッズで1994年から1997年の3年半の間プレーした。浦和ではディフェンスの要として活躍。「ゲルマン魂」をそのまま体現する闘志むき出しのプレイスタイルはチームに大きな刺激を与え、それまで弱小クラブだった浦和を底上げし、サポーターから敬愛された。1995年・1996年には2年連続でベストイレブンに選出されている。1997年10月15日、浦和駒場スタジアムで行われた退団セレモニーでは、白馬に乗って場内を回り、多くのサポーターに惜しまれながらチームを去った。
1997年-1998年シーズンのブンデスリーガ・カールスルーエSCを最後に現役を引退。引退後はシュトゥットガルト・キッカーズのスタッフとなる。
2002年から浦和レッズのテクニカル・アドバイザー、そして2004年から監督に就任。第2ステージでは監督就任1年目にして、チームを初のステージ優勝に導いた。2005年のシーズンでは苦しいチーム状況の中リーグ戦では2位、そして第85回天皇杯優勝という成果を残した。翌2006年、リーグチャンピオンの座を賭けた最終戦(34節)はホーム埼玉スタジアム2002で2位ガンバ大阪を迎え撃つ形となり、その直接対決で浦和レッズが3-2で勝利を収め、悲願のリーグ制覇を決めた。浦和レッズが自身初めての監督経験であったがヘッドコーチのゲルト・エンゲルスとの二人三脚での指揮が3年目にして実を結んだ結果となった。(なおこの優勝はJリーガー出身の監督としても初のリーグ優勝であった。)
日本を「第二の故郷」と呼ぶブッフバルトは、選手・監督として浦和レッズの歴史に偉大な足跡を残した。ブッフバルトの勇退を熱狂冷め遣らぬ試合後のスタジアムで、チーム一同胴上げで祝った。優勝監督インタビューでは日本語で「ウラワレッズハイチバンデース!」とコメントした。
12月4日午前に正式に浦和レッズの監督留任要請を断り、午後になり「埼玉スタジアム2002」で母国ドイツへ帰国すると表明した。単身赴任を続けてきた家庭の事情と、監督生活の3年間に区切りをつけたいという意思からだ。今後については、「いいオファーは来ている、私からサッカーをとったら何も残らない」と話している。この事から近いうちに監督業を復帰する可能性はあり、今後の動向には日本だけでなく、母国ドイツでも注目が集まりそうだ。
2007年元日の第86回天皇杯決勝が指揮を執った最後の試合になったが、浦和レッズは1-0でガンバ大阪を破って大会連覇、有終の美を飾った。試合後のウィニングランでブッフバルトが選手とともにゴール裏のサポーター席前に到着すると、サポーターから“Guido Danke(ギド、ありがとう)!”の大合唱がわきおこり、名指揮官を称え、別れを惜しんだ。
なお、引き続き浦和とはアドバイザー契約を結んで、浦和とドイツとのパイプ役として関与を続ける予定である。
- ^ 2006年12月に浦和レッズの監督退任を発表する記者会見を行った際、退任後にまず何をするかと聞かれて「ユルゲン・クリンスマンを訪ねる」と答えている。
[編集] 所属チーム
[編集] 現役時代
- 1969年-1977年 - SVバンバイル(西ドイツ)
- 1977年-1978年 - TSVプリーツハウゼン(西ドイツ)
- 1978年-1983年 - シュトゥットガルト・キッカーズ(西ドイツ)
- 1983年-1994年 - VfBシュトゥットガルト(西ドイツ・ドイツ)
- 1994年7月-1997年10月 - 浦和レッドダイヤモンズ(日本)
- 1998年-1999年 - カールスルーエSC(ドイツ)
[編集] 引退後
- 1999年-2001年 - シュトゥットガルト・キッカーズ スタッフ
- 2002年-2003年 - 浦和レッドダイヤモンズ テクニカル・アドバイザー
- 2004年-2006年 - 浦和レッドダイヤモンズ 監督
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
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J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1994年 | 浦和 | J | - | 20 | 2 | - | 2 | 0 | 3 | 0 | |
1995年 | 浦和 | J | - | 51 | 4 | - | - | 3 | 0 | ||
1996年 | 浦和 | J | - | 24 | 3 | - | 12 | 0 | 4 | 0 | |
1997年 | 浦和 | J | 6 | 32 | 2 | - | 6 | 0 | - | ||
通算 | 127 | 11 | - | 20 | 0 | 10 | 0 |
なお、1996年以前も背番号は主に「6」を付けていた。
[編集] ブンデスリーガ通算成績
- 1部通算 334試合28得点
- 2部通算 177試合21得点
[編集] 獲得タイトル
[編集] 現役時代
- FIFAワールドカップ優勝 1回(1990)
- ブンデスリーガ優勝 2回(1983-84、1991-92)
- ドイツスーパーカップ優勝 1回(1992)
- Jリーグ ベストイレブン (1995,1996)
[編集] 監督時代
- Jリーグ2ndステージ優勝 1回(2004)
- Jリーグ優勝 1回(2006)
- 天皇杯優勝 2回(2005、2006)
- スーパーカップ優勝 1回(2006)
[編集] 代表歴
- ドイツ代表76試合4得点
[編集] その他
- ブッフバルトのドイツ代表引退当時、ドイツ代表では代表試合出場80試合以上で代表引退試合を行う規定があった。ブッフバルトはこれに4試合不足していたが代表での功績を称えられ、特別に代表引退試合を開催する事が認められた。代表引退試合は1995年に行われている。
- 浦和レッドダイヤモンズ選手時代の1996年に大型トラック「三菱ふそう・スーパーグレート」の広告キャラクターに起用された。
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西ドイツ代表 - 1990 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (3度目) | ||
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1 イルクナー | 2 ロイター | 3 ブレーメ | 4 コーラー | 5 アウゲンターラー | 6 ブッフバルト | 7 リトバルスキー | 8 ヘスラー | 9 フェラー | 10 マテウス | 11 ミル | 12 アウマン | 13 リードレ | 14 ベルトルト | 15 バイン | 16 シュタイナー | 17 メラー | 18 クリンスマン | 19 プフリュグラー | 20 トーン | 21 ヘルマン | 22 ケプケ | 監督: ベッケンバウアー |
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