コンベア880
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コンベア880 (Convair CV880) は、アメリカの大手航空機製造会社のコンベア社が開発した、世界最速のスピードを誇るという触れ込みで登場した大型ジェット旅客機。
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[編集] 概要
[編集] コンベア初のジェット機
コンベア240や440などの小・中型レシプロ旅客機を生産していたコンベア社が、1950年代前半より同社として初の大型ジェット旅客機として開発し、1959年に初飛行した。ボーイング707やダグラスDC-8などのライバル機を上回る速度が売りであったが、実際はメーカー保証値すら出ず、更に積載能力が小さく、座席数・燃料搭載量で劣る点が敬遠されて受注は伸びなかった。
また搭載していたジェネラル・エレクトリックCJ-805-3エンジン(F-104やF-4に搭載されていたJ79の民間バージョン)は整備が煩雑で信頼性に乏しいことも足を引っ張った。その後まもなく改良型でターボファンエンジンCJ-805-23Bを搭載したコンベア990(愛称:コロナード)が就航したこともあり、総生産数はわずか65機にとどまった。しかも1960年代前半には、中短距離用ジェット機としてボーイング727やダグラスDC-9が、中長距離用としてダグラスDC-8の機体を延長してより高性能化したスーパー60シリーズの生産開始が発表されたことから、コンベア990も発注が伸びず1962年を持って生産を終了した。880・990の失敗がコンベア社の崩壊の原因となった。
開発当時、アメリカの大手航空会社、トランス・ワールド航空の実質的オーナーだった伝説の大富豪、ハワード・ヒューズが開発の際にアドバイスをしたといわれている。実際、生産された機体の半分近くがトランス・ワールド航空に納入されている。また、ロックンロール界のスーパースター、エルヴィス・プレスリーの専用機として使用されたことでも有名である。
[編集] 現在
すでに飛行可能な機体はなく、その殆どがスクラップにされたが、少数の機体は航空博物館などで静態保存されている。なお、上記のエルヴィス・プレスリーの専用機「リサ・マリー」号(N880EP、デルタ航空の機体を1975年に購入、没後の1979年に抹消)は、エルヴィスの故郷メンフィス市にある自宅「グレースランド」に展示されている。
[編集] スペック
- 全長: 39.42m
- 全幅: 36.58m
- 全高: 11m
- 座席数: 最大110席
- エンジン:ジェネラル・エレクトリック CJ-805-3 x 4発
- 航続距離: 5120km
- 巡航高度: 10,700m
[編集] ユーザー(一部)
- 日本航空
- 日本国内航空
- 民航空運公司
- キャセイパシフィック航空
- トランス・ワールド航空
- デルタ航空
- VIASA航空
- エルヴィス・プレスリー
[編集] 日本のコンベア880
[編集] 短い活躍期間
日本では日本航空が計8機、日本国内航空が1機のCV880-22Mを導入しており、合わせて9機が日本の空を飛んだ。当時、イギリス製ターボプロップ機のヴィッカース・バイカウントを導入し人気を博していた全日空に対抗して、1961年に東京-札幌線に国内線初のジェット機(「ジェットアロー」の愛称で呼ばれていた)として就航するなど、国内線や東南アジア線を中心に投入された他、南回りヨーロッパ線の機材として活躍した。また全日本空輸のビッカーズ バイカウントに対抗して、当時でもドル箱路線であった東京-大阪線の一部にも投入された。
しかし、エンジンや電気系を中心にトラブルが多く扱いにくい機体(「じゃじゃ馬のような飛行機」と実際に言われた)としても知られ、1971年に全機が退役し売却された。そのため、いずれも訓練飛行中であるが墜落事故で3機を喪失したほか、一部はボーイング747の導入時(ちょうど本機と入れ違いに導入された)に「下取り」という形でボーイングが引き取った。また、香港のキャセイパシフィック航空や中華民国の民航空運公司などが日本への乗り入れ機材として導入したが、日本航空の所有機材と同じくその活躍期間は短かった。また、日本で運航された機体には植物の愛称がつけられていたが、日本国内航空からのリース機であった銀座号は変更前に喪失したためそのままであった。
運航機 | 機体記号 | 型式 | 製造番号 | 愛称 | 受領年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1号機 | JA8021 | CV-880-22M | 22-07-5 | さくら | 1961/1/21 | 1971/4/28売却抹消 |
2号機 | JA8022 | CV-880-22M | 22-07-6 | まつ | 1961/9/1 | 1970/1/7売却抹消 |
3号機 | JA8023 | CV-880-22M | 22-07-7 | かえで | 1961/9/8 | 1965/2/27壱岐で大破、抹消 |
4号機 | JA8024 | CV-880-22M | 22-07-60 | きく | 1962/6/7 | 1970/6/26売却抹消 |
5号機 | JA8025 | CV-880-22M | 22-07-61 | あやめ | 1962/6/7 | 1971/4/7売却抹消 |
6号機 | JA8026 | CV-880-22M | 22-00-46 | やなぎ | 1963/7/3 | 1971/3/29売却抹消 |
7号機 | JA8027 | CV-880-22M | 22-00-48 | すみれ | 1963/3/1 | 1971/4/12売却抹消 |
8号機 | JA8028 | CV-880-22M | 22-00-49 | ききょう | 1963/3/22 | 1969/6/28モーゼスレークで大破 |
リース機 | JA8030 | CV-880-22M | 22-00-45 | 銀座 | 1966/7/1日本国内航空からリース | 1966/8/26羽田空港で墜落 |
[編集] 事故
1965年に壱岐空港、1966年に羽田空港、1969年にアメリカ・モーゼスレイクで、いずれも訓練中に墜落事故を起こしている。このうち羽田空港での事故を起こしたのは日本国内航空の導入機で、同社のボーイング727と共に路線ごと日本航空にリースされたものであったが、日本航空の塗装になる前にこの事故が起こったため、事故直後の報道において混乱を引き起こした。尚、この事故は3件とも飛行訓練中であったため、有責旅客死傷者はない。
[編集] 展示
交通博物館には本機のエンジン、ジェネラル・エレクトリックCJ805が展示されていた。日本における数少ないコンベア880の遺物だが、同館は2006年5月14日に閉館したため、今後の取扱いは未定である。
[編集] その他
コンベア880のエンジンのジェネラル・エレクトリックCJ805は騒音が大きく、日本航空やキャセイパシフィック航空機が乗り入れる大阪国際空港騒音問題の槍玉にあげられたこともある。