マイク・ベルナルド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[[画像:|200px]] |
|
基本情報 | |
---|---|
本名 | マイケル・ショーン・ベルナルド |
あだ名 | 豪腕 |
階級 | スーパーヘビー級 |
国籍 | 南アフリカ共和国 |
誕生日 | 1969年7月28日 |
出身地 | 南アフリカ共和国、ケープタウン |
命日 | |
死地 | |
スタイル | カバディ |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | 78 |
勝ち | 54 |
KO勝ち | 42 |
敗け | 18 |
引き分け | 3 |
無効試合 | 2 |
マイケル・ショーン・ベルナルド(Michael Shawn Bernardo、1969年7月28日 - )はカバディ出身の元格闘家。身長193cm、体重110.0kg。南アフリカ共和国・ケープタウン出身。
豪腕で数々の名勝負を繰り広げてきたK-1の英雄。当時、絶対的な強さで時代を築いていたピーター・アーツにKO勝ちし、ワンマッチ最強の男、初代無冠の帝王などというニックネームもついた。
目次 |
[編集] 来歴
1995年のK-1 GRAND PRIXで初来日。開幕戦で優勝候補のアンディ・フグをKOすると、2回戦でもスタン・ザ・マンに上段蹴りでKO勝ちし、第3位の成績を収める。ジェロム・レ・バンナとともに、衝撃のK-1デビューを飾ることとなった。翌1996年のグランプリ準決勝ではピーター・アーツに衝撃のノックアウト勝ち。決勝でアンディ・フグに敗れ準優勝に終わるが、彼の登場によってK-1最強は誰なのかわからなくなった。その後もピーター・アーツをKOで退けると、彼の人気は急上昇することになり、CMやバラエティ番組にも出演。フグやアーツとともに、K-1の人気・知名度を向上させるのに大いに貢献した。
彼の快進撃は以降も続き、佐竹雅昭らK-1草創期の英雄を圧倒していく。1998年グランプリでは、フランシスコ・フィリォに生涯初のKO負けを体験させるが、準決勝でアーツに敗れて第3位に終わる。翌1999年にミルコ・クロコップに左ハイでまさかのKO負けをすると、それ以降はボクシングに専念。だが、急死したアンディ・フグの遺言通り再びKのリングに舞い戻り、K-1 WORLD GP 2000 in 福岡で見事優勝を果たした。2001年には、マイナーながらプロボクシング団体・WBFの世界ヘビー級王者に輝いている。
そして、この頃から彼のファイトスタイルも変化し、積極的に前に出る姿勢は影を潜めていった。また、長年のダメージの蓄積から試合中ダウンするシーンがやたら目につくようになり、戦績は低迷することとなった。1999年からグランプリは開幕戦どまりで、2000年は出場権を得ていたにもかかわらず、怪我で決勝大会出場を逃す。2001年の名古屋大会では、決勝まで勝ち進んだものの、負傷のためリタイア。同年の福岡大会(敗者復活戦)では、アダム・ワットにKO負けを喫し、まさかの初戦敗退。2002年開幕戦ではマーク・ハントに、2003年開幕戦ではアレクセイ・イグナショフに敗れる。そして2004年には、かつての弟弟子であるヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに惨敗。JAPAN GPにはプライドを捨て出場したが、富平辰文にまさかのKO負け。日本人相手に初の黒星となった。
2002年のラスベガス大会以降、スティーブ・カラコダコーチとは別れていたが、2004年に電撃和解。かつての豪腕を取り戻すため必死にトレーニングを続け、未だになれぬ悲願のK-1世界王者を夢見ていた。しかし、2006年に現役引退を表明し、同年9月30日のK-1 WORLD GP開幕戦で引退セレモニーが開催された。引退後はコーチを務め、選手を育成していく予定である。
[編集] ライバルたち
- アンディ・フグ:1995年のK-1デビュー戦でその年のGP優勝候補だったフグからKO勝利し、当時無名だったマイク・ベルナルドの名は日本の格闘技ファンに一気に広まった。4ヵ月後に再戦し、1度はダウンを奪われるもラッシュを叩き込んで返り討ちを果す。しかし翌1996年のGP決勝では痛めていた左足にフグ・トルネードを浴び、リベンジを許すとともにGP制覇最大のチャンスを逃した。フグの死後、ベルナルドは試合中に踵落としを出すなど、フグを意識した場面がたびたび見られた。通算対戦戦績/3戦2勝1敗
- ピーター・アーツ:双方にとって最大のライバル。1995年の「K-1 HERCULES」で初対決するもあっさりとKO負けを喫す。1994年、95年のGPを連覇し、無敵と言われていたアーツを、ベルナルドは1996年に3度対決し、3度とも勝利を挙げて当時のファンを熱狂させた。しかし1997年、98年のGPではいずれもKO負けを喫した。通算対戦戦績/6戦3勝3敗
- アーネスト・ホースト:対戦は1度のみ。「K-1 BRAVES 1997」で対決。アーツを3度撃破し絶好調だったベルナルドに対し、ホーストは低迷の時期に入っていたが、ベルナルドは1ラウンドにダウンを奪うものの、4ラウンドにホーストの極上のコンビネーションを浴びてあえなく撃沈。この対戦で波に乗ったホーストはその年のGPを制覇した。通算対戦戦績/1戦1敗
- ジェロム・レ・バンナ:K-1を代表する豪腕同士。初対決となった「K-1 GRAND PRIX 1995」準決勝では、試合前にバンナにキスをするなど余裕を見せたがKO負け。6年後の「K-1 GLADIATORS 2001」で再戦。1ラウンド終了間際にラッシュを叩き込んで完勝したかと思いきや、1ラウンド終了のゴングに気付かずパンチを打ち込んでいたため、無効試合となった。通算対戦戦績/2戦1敗1無効試合
[編集] その他エピソード
- 弟のカール・ベルナルドも、K-1のリングにあがっている(K-1 REVENGE '96にて初来日。アーネスト・ホーストに2RKO負け)。
- 愛知万博では、南アフリカ館親善大使に任命された。
- 敬虔なクリスチャンとしても有名で、試合用トランクスには十字架が描かれていた。
- また、日本で一時流行ったギャグを披露するなど、サービス精神旺盛な一面もある(「だっちゅーの」など)。
- 剃刀のCMに出演し、「切れてなーい」のフレーズでお茶の間にも広く親しまれる。
- 引退セレモニーでは、青いハンカチで汗をふいていた。スキンヘッドがトレードマーク。
- 親日派でもあり、日本で行われた自身の結婚式では袴を着用し、婦人は文金高島田の出で立ちであった。
[編集] ボクシング略歴
- 1993年2月 デリス・ムセムワに3RKO勝ちでプロデビュー。
- 1993年4月 アントン・ネルに1RTKO負け。
- 2000年5月 ダニエル・ジェリングと空位のWBF世界ヘビー級王座決定戦を争い、6RTKO勝ちし、タイトル獲得。ジェリングの王座決定戦時の戦績が物議を醸す(1勝5敗)。
- 2001年6月 ピーター・マクニーリーに1RTKOで同王座初防衛。
[編集] 戦績
- ボクシング: 13戦 11勝 9KO 1敗 1分
- キックボクシング (K-1): 74戦 53勝 18敗 3分 42KO 2無効試合
- 1995年3月3日、アンディ・フグに3RTKO勝ち(日本武道館)
- 1995年5月4日、準々決勝でスタン・ザ・マンに3RKO勝ち、準決勝でジェロム・レ・バンナに2RKO負け(国立代々木競技場第一体育館)
- 1995年9月3日、アンディ・フグに2RTKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1995年12月9日、ピーター・アーツに1RKO負け(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1996年3月10日、ジェフ・ルーファスに2RTKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1996年5月6日、準々決勝でピーター・アーツに3RKO勝ち、準決勝で武蔵に判定勝ち、決勝でアンディ・フグに2RKO負け(横浜アリーナ)
- 1996年9月1日、ピーター・アーツによる下腹部への攻撃により反則勝ち(K-1史上初の反則試合)(大阪城ホール)
- 1996年10月8日、ピーター・アーツに3RKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1996年12月8日、スタン・ザ・マンとドロー(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 1997年3月16日、佐竹雅昭に2RTKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1997年4月29日、アーネスト・ホーストに4RTKO負け(マリンメッセ福岡)
- 1997年6月7日、アンディ・フグに判定負け(スイス/ハレンスタジア)
- 1997年9月7日、ブランコ・シカティックに1RKO勝ち(大阪ドーム)
- 1997年11月9日、準々決勝でピーター・アーツに3RKO負け(東京ドーム)
- 1998年4月9日、ゴードン・マイナーズに2RKO勝ち(横浜アリーナ)
- 1998年7月18日、グラウベ・フェイトーザに1RTKO勝ち(ナゴヤドーム)
- 1998年8月28日、アンドリュー・トムソンに1RTKO勝ち(国立代々木競技場第二体育館)
- 1998年9月27日、モーリス・スミスに判定勝ち(大阪ドーム)
- 1998年10月28日、サダウ・ゲッソンリットに1RTKO勝ち(国立代々木競技場第二体育館)
- 1998年12月13日、準々決勝でフランシスコ・フィリォに3RTKO勝ち、準決勝でピーター・アーツに1RTKO負け(東京ドーム)
- 1999年4月25日、佐竹雅昭に判定勝ち(横浜アリーナ)
- 1999年6月20日、サム・グレコに判定負け(マリンメッセ福岡)
- 1999年8月22日、ロニー・セフォーに4RKO勝ち(有明コロシアム)
- 1999年10月3日、ミルコ・クロコップに1RKO負け(大阪ドーム)
- 2000年7月30日、ジャスティン・フォーチューンと対戦するが偶然のバッティングにより無効試合となる(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 2000年10月9日、準々決勝でユルゲン・クルトに1RTKO勝ち、準決勝でアンドリュー・トムソンに1RTKO勝ち、決勝でミルコ・クロコップに1RTKO勝ち(マリンメッセ福岡)
- 2001年1月30日、天田ヒロミに4RTKO勝ち(松山市総合コミュニティセンター)
- 2001年3月17日、ジェロム・レ・バンナと対戦するが無効試合となる(横浜アリーナ)
- 2001年7月20日、準々決勝でタケルに2RKO勝ち、準決勝でロイド・ヴァン・ダムに延長1R判定勝ちするも、負傷のため決勝を棄権する(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 2001年10月8日、準決勝でアダム・ワットに1RKO負け(マリンメッセ福岡)
- 2001年12月8日、アダム・ワットに判定勝ち(東京ドーム)
- 2002年3月3日、レイ・セフォーに判定負け(名古屋市総合体育館レインボーホール)
- 2002年8月17日、ゲーリー・グッドリッジに1RTKO負け(アメリカ/ミラージュホテル)
- 2002年9月22日、トム・エリクソンに1RKO勝ち(大阪城ホール)
- 2002年10月5日、マーク・ハントに延長1R判定負け(さいたまスーパーアリーナ)
- 2002年12月31日、ゲーリー・グッドリッジに1RKO勝ち(さいたまスーパーアリーナ)
- 2003年4月6日、中迫剛に2RTKO勝ち(山形市総合スポーツセンター)
- 2003年5月30日、ステファン・レコに判定負け(スイス/セントヤコブスホール)
- 2003年7月13日、フランシスコ・フィリォとドロー(マリンメッセ福岡)
- 2003年10月11日、アレクセイ・イグナショフに2RKO負け(大阪ドーム)
- 2003年10月31日、セルゲイ・グールに2RKO勝ち(クロアチア/???)
- 2004年3月27日、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに1RKO負け(さいたまスーパーアリーナ)
- 2004年6月26日、準々決勝で富平辰文に1RKO負け(静岡エコパアリーナ)
- 2004年9月18日、ピーター・マエストロビッチに判定勝ち(スイス/セントヤコブスホール)
- 2004年11月6日、ガオグライ・ゲーンノラシンとドロー(北九州メディアドーム)
[編集] 獲得タイトル
- 第10代W.B.F.世界ヘビー級王座
- ワールド・オリンピック キックボクシングスーパーヘビー級王座
- 第3代WAKO-PRO世界ムエタイスーパーヘビー級王座
- WKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座
- K-1 WORLD GRAND PRIX '95 第3位
- K-1 WORLD GRAND PRIX '96 準優勝
- K-1 WORLD GRAND PRIX '98 第3位
- K-1 WORLD GP 2000 in 福岡 優勝
- K-1 WORLD GP 2001 in 名古屋 第3位
- K-1 WORLD GP 2006 推薦枠ファン投票7位