ミルコ・クロコップ
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ミルコ・クロコップ | |
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基本情報 | |
本名 | ミルコ・フィリポビッチ |
あだ名 | ターミネーター プロレスハンター 戦う国会議員 |
階級 | ヘビー級(PRIDE、UFC) |
国籍 | クロアチア |
誕生日 | 1974年9月10日 |
出身地 | クロアチア ヴィンコヴツィ |
現居住地 | クロアチア |
スタイル | キックボクシング |
戦績 | |
総試合数 | 28(K1総合、PRIDE、UFC) 2007年2月現在 |
総勝利数 | 22 |
KO勝ち | 18 |
一本勝ち | 1 |
判定勝ち | 3 |
総敗北数 | 4 |
KO負け | 1 |
一本負け | 1 |
判定負け | 2 |
引き分け | 2 |
無効試合 | 0 |
ミルコ・クロコップ(Mirko "Cro Cop" Filipović、本名:ミルコ・フィリポビッチ、1974年9月10日 - )は、クロアチア(旧ユーゴスラビア)出身の元警察官で、総合格闘家。クロアチア国会議員(2003年- )。身長188cm、体重102.0kg。
入場曲はDURAN DURANの「WILD BOYS」。
目次 |
[編集] 来歴
格闘技は15歳の頃よりテコンドーを始めたが一度は内戦の激化により断念。その後17歳から空手、19歳でキックボクシングに転向。リングネームのクロコップは、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。
日本においては、当初K-1で活躍した。1999年に「K-1 GP '99」で準優勝を果たしたものの、最後まで自身が直接優勝をすることはなかった(2002年、前年のK-1GP王者マーク・ハントと対戦し、判定勝ちしたことから、以降K-1は制したと語っている)。
2003年にボブ・サップにKO勝利した後に総合格闘技PRIDEへと転向している。総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負し、派手なKO勝ちを繰り返す。エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと並んでPRIDEヘビー級三強と称された。
総合格闘技に転向した直後は、PRIDEに参戦するプロレスラーを次々と撃破した事から「プロレスラーハンター」と呼ばれていた。
現在は自分のチームであるチーム・クロコップを作り、所属している。他の所属選手はファブリシオ・ヴェウドゥム、マイク・カイルなど。
2006年9月10日、PRIDE無差別級GP・決勝ROUNDにて、準決勝でミドル級絶対王者ヴァンダレイ・シウバを必殺の左ハイで1RKO。決勝戦で3度目の対戦となったジョシュ・バーネットを3度返り討ち(1RKO)。自身の32歳の誕生日に初のタイトルを獲得したミルコは思わず涙を流した。
2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦が正式に発表されるとともに、PRIDEからの離脱が明らかになった。
入場曲はDURAN DURANの「WILD BOYS」であるが、UFC参戦時にはPRIDEのテーマソングを入場曲としている。そのため、PRIDEを代表して参戦しているという見方も考えられる。
[編集] 基本情報
- 日本でのキャッチコピーは“戦慄のターミネーター”。その後PRIDEでは「完全征服の帝王」「超人」など。
- K-1にはブランコ・シカティックの一番弟子として1996年に来日。デビュー戦の相手はジェロム・レ・バンナで判定勝ち。当初は「ミルコ・タイガー」というリングネームだった。タイガーはシカティックの持つ道場名「チャクリキ・タイガージム」に因んでいる。
- K-1時代は、「タイホスル(逮捕する)」が決め台詞だった。
- 警察官時代はテロ対策特殊部隊に所属していてその傍らアマチュアボクシングで活躍していた(クロアチア警察の格闘技教官も担当)。
- クロアチアでは国民的な人気を誇っていて、テレビゲームや映画の主役になっている。
- 愛国者としても知られ、2003年よりクロアチアの国会議員としても活動している。会派はクロアチア社会民主党。彼がクロアチア総選挙への出馬を表明した際の東京スポーツの一面見出し「ミルコ・クロコップ 社民党から出馬」は、今でも語り草である。
- 2004年、クロアチアのサッカーチーム「チバリア・ヴィンコヴツィ」へ入団。FWとして公式デビュー。
- 夫人はサッカーのワールドカップ、フランス大会で得点王に輝いたサッカークロアチア代表、ダヴォール・シューケル選手の妹である。
- 食事に関しては独特の哲学を持っており、生野菜は食べない。これをテレビ番組(生放送)で発言したところ、国会議員という立場からか、猛抗議を受けた。しかし、野菜スープを食べている姿がDVDに収録されている。また、ステーキは脂身を全て落としたエクストラウェルダン、スパゲティはミートソースでなければ食べないというこだわりぶりである。好物はフルーツで、試合前にフルーツを食べるのが習慣となっている。
- トランプが好き。よくやるのが「ベラ」というクロアチアのゲーム。
- K-1時代は、「俺はアーツのハイキックにベルナルドのパンチを持っている」と豪語していた。
- 戦いぶりなどから、冷徹な印象を持つファンも少なくないが、実はかなりの冗談好きで、取材に訪れた記者たちに手の込んだドッキリをしかけることもある。
[編集] 主な戦歴
[編集] K-1時代
- 1996年3月10日、「K-1 GP '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、“ミルコ・タイガー”のリングネームで日本に初登場。前年GP準優勝、ジェロム・レ・バンナと対戦。1Rに左ストレートでダウンを奪うものの、後半は体格で勝るバンナがペースを握る。ダウンのポイントを何とか守りきり、辛勝ながらも金星を挙げた。
○(5R判定3-0)ジェロム・レバンナ
- 1996年5月6日、「K-1 GP '96 決勝戦」に出場。準々決勝でかつて師であるシカティックに失神KO負けを喫したことのあるアーネスト・ホーストと対戦。ホーストのテクニックとローキックに圧倒され、3Rに半ば戦意損失でTKO負け。この試合以降、シカティックと決別したミルコは、しばらく日本のリングから姿を消すこととなり、代わりにシカティックは現役復帰し、K-1のリングに上がった。
●(3R TKO)アーネスト・ホースト
- 1999年4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たす。ミルコ“クロコップ”フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ち。
○(4R KO)ヤン“ザ・ジャイアント”ノルキヤ
- 1999年6月20日、「K-1 BRAVES '99 ~グランプリへの道~」に出場。準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる左ハイキックで1RKO勝ち。しかし準決勝では試合巧者のジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃す。
- 怪我人の発生で推薦として1999年10月3日、「K-1 GP '99 開幕戦」に出場。マイク・ベルナルドをハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪いKO勝ち。当時のK-1四天王の一人を倒し、大金星を挙げた。
○(1R KO)マイク・ベルナルド
- 1999年12月5日、「K-1 GP '99 決勝戦」に出場。準々決勝で武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ち。対戦相手に恵まれたこともあり(グレコは自ら放ったローキックで半ば自滅)、決勝まで駒を進めたミルコだが、武蔵戦ですでに肋骨を骨折していた。決勝では歴代王者3人が犇く激戦ブロックを制したアーネスト・ホーストと対戦。ボディを徹底的に攻められ3RKO負けを喫するも、3年前はまるで歯が立たなかった相手に善戦し、成長を見せた。ミルコはK-1復帰1年目にしてグランプリ準優勝を飾るが、後に当時を振り返って「あれは運がよかった」とミルコ自身は語っている。この大会で一気にトップ選手への仲間入りを果たしたミルコは、リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。次世代を担う若手選手として注目されるようになる。
●(3R KO)アーネスト・ホースト
- 2000年3月19日、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だっため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。試合は4RでミルコのKO勝ち。
- 2000年6月3日、アンディ・フグのスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに軍配はあがる。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、判定で敗北を宣告されながらも、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。後の映画進出も、映画俳優を目指していたフグに影響を受けたといわれている。
●(5R判定0-3)アンディ・フグ
- 2000年9月1日、「K-1 GP EUROPE 2000」にワンマッチで出場。スチュアート・グリーンに2RKO勝ち。
- 2000年10月9日、「K-1 WORLD GP 2000 in 福岡」に出場。準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちするも、この試合で右足首を負傷。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと駒が進めるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。
- 2000年12月10日、「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと3度目の対戦。延長まで持ち込むものの、安全運転のホーストに終始試合をリードされ、判定負け。これ以降両者の対戦は実現せず、2006年にホーストは引退。ミルコはGP制覇の夢を3度も阻んだホーストから、ついに1勝も挙げることはできなかった。
●(延長判定0-3)アーネスト・ホースト
- 2001年1月30日、「K-1 RISING 2001 ~四国初上陸~」に出場。富平辰文に2RKO勝ち。
- 2001年3月17日、「K-1 GLADIATORS 2001」に出場。過去3度のGP優勝を誇るピーター・アーツと対戦。お互いハイキックを得意とし、また新旧を代表するファイターであることから注目を集めた一戦となったが、試合は凡戦。序盤、ミルコはハイキックとパンチのラッシュでアーツを攻め込むも、後半アーツの膝蹴りを受けてスタミナ切れを起こし失速。クリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも判定勝利を収めた。
○(5R判定2-0)ピーター・アーツ
- 2001年6月16日、「K-1 WORLD GP in メルボルン」に出場。順当に勝ち進めば決勝でホーストと4度目の対戦となるはずだったが、準々決勝で伏兵マイケル・マクドナルドにあっさりと1RKO負け。相手を格下と見て、腕を回すなど余裕な態度や挑発をした上での惨敗だった。
●(1R KO)マイケル・マクドナルド
[編集] 総合格闘技の世界へ(K-1ルール・MMAルール両立時代)
- 6月のメルボルン大会で早々とGP本戦から姿を消してしまったミルコだが、スケジュールが空いたことにより、この時期に気運が盛り上がりつつあったK-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなった。猪木軍のエースとして当時絶頂期にあった藤田和之の相手として、ミルコは当初は3番手候補として名が挙げられていたが(候補筆頭はバンナだった)、最終的に対戦相手に決定。ルールは3分5Rの総合格闘技(VT)ルール。初のVTとなるミルコはアメリカに渡り、マルコ・ファスの道場で特訓。そして2001年8月19日、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にていよいよ決戦を迎えた。藤田の2度のタックルをかわした後、3度目のタックルに膝蹴りを合わせ、藤田の額を割った。藤田の頭部からおびただしい量の血が流れたため、ミルコはドクターストップによるTKO勝ちを得た。藤田は膝蹴りを受けながらもミルコからテイクダウンを奪い、サイドポジションという絶好の位置を奪っていただけに、ドクターストップという結果に会場に押し寄せていたプロレスファンからはブーイングが沸き起こった。この試合によりミルコの存在は総合格闘技家やプロレスラーの間に衝撃を与え、手応えを得たK-1は積極的に総合格闘技に参入するようになり、日本の格闘技界はボーダレス化の時代を迎えることになる。この一戦はその後のミルコだけでなく、格闘技界全体の流れを変えた一戦となった。
○(1R TKO)藤田和之
- ミルコは総合格闘技での活躍が認められ、この年のK-1 WORLD GPの敗者復活トーナメントに推薦として出場する予定だったが、2001年9月11日の米国同時多発テロ発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念となった。ちなみにミルコの代わりに出場したマーク・ハントはGP優勝を飾っている。
- 8月の結果により、早速日本の総合格闘技のメジャーブランドであるPRIDEがミルコを招聘。PRIDE側は対戦相手に苦慮した結果、自薦という形で高田延彦に決定し、藤田戦と同じルールが適用された。そして2001年11月3日、「PRIDE.17」にて対戦。試合序盤で右足を骨折してしまった高田は自らリングに腰を降ろし、ミルコを手招きでグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはそれを拒否。試合はいわゆる猪木アリ状態の状態が続いたまま終わり、規定によりドローとなった。ミルコは試合後「高田はチキンだ」と激しく罵倒し、また直前の試合で対戦した藤田と比較し、「藤田は本物のファイター、高田は偽者のファイター」とも発言した。
△(延長5R)高田延彦△
- ○2001年12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志を21秒、左ハイキック一撃でKO(総合格闘技ルール)、『プロレスハンター』の座を揺るぎないものにした。
- ○2002年1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志(元パンクラス所属のプロレスラー)に1RTKO勝ち。
- 2002年3月3日、「K-1 WORLD GP 2002 in 名古屋」におけるマーク・ハントとのK-1ルールワンマッチ対決は、K-1の刺客として外征してきたミルコと2001年K-1王者のハント、また一撃必殺のミルコと絶対に倒れないハント、という分かり易い構図で注目を集める一戦となった。序盤、ミルコはパンチでハントを追い込むと、3Rにはついに左ハイキックでダウンを奪う。しかしハントはハイキックをまともに食らいながらも立ち上がり、後半は持ち味の体格を活かしたプレッシャーで逆襲に転じるが、ハントの反撃をクリンチワークでかわし切ったミルコはフルマークの判定勝利を得た。
○(判定3-0)マーク・ハント
- 2002年4月28日、「PRIDE.20」に参戦。VT4戦目にしていきなりヴァンダレイ・シウバ(初代PRIDEミドル級王者)と激突。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、VT経験の浅いミルコに配慮した形となった。また両者の体重差が問題視されたが(ミルコはヘビー級)、試合当日はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。大会前のマスコミを通じての舌戦、試合直前の両者による激しい睨みを経て、いよいよ対決。試合はミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせたが、シウバもミルコからテイクダウンを奪い、ミルコに初めてグラウンドの恐怖を味あわせると、スタンドでも手数で上回った。結局試合はドロー。有効打ではミルコ、積極性ではシウバとなったが、試合後も勝敗を巡ってファンの間では激しい議論が繰り返され、再戦を望む声が多く聞かれた。
△(5R)ヴァンダレイ・シウバ△
- ○2002年7月14日、「K-1 WORLD GP 2002 in 福岡」で後にGPを連覇するレミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。2RTKO勝ち。
- 2001年のミルコ対藤田の後、K-1とPRIDEの交流が盛んに行われるようになったが、その集大成とも言えるイベントが2002年8月28日に開催された、「Dynamite!」(国立霞ヶ丘陸上競技場)である。この1年で一躍格闘技界の主役に躍り出たミルコは、このイベントのメーンで日本のエースにしてプロレスラー最後の砦と言われた桜庭和志と対決することとなる。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のVTルールとなったが、平時における両者の体重差は実に20kg近くに及び、ミルコの勝利は明らかと言われた。試合は事前の予想通りミルコペースとなり、2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際に桜庭の顔面を蹴り上げた。これが決定打となり、桜庭のドクターストップによりミルコが勝利を得た。
○(2R TKO)桜庭和志
- 初制覇に期待が掛かっていた「K-1 WORLD GP 2002」にミルコは椎間板ヘルニアを理由に欠場。後日、元気にサッカーをするミルコの写真がネットに流れ、一部で物議を呼んだ。
- ○2002年12月31日「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とVTルールで再戦。危なげない試合運びで判定勝ちし、返り討ちを果たす。
- 一連の交流戦は日本に格闘技ブームを起こしたが、この時代の寵児とも言えるのが当時人気絶頂にあったボブ・サップであった。2001年の「Dynamite!」において注目を集めると、その年のK-1 WORLD GPでは開幕戦と決勝戦準々決勝で2度もアーネスト・ホーストをKOし、一躍スターダムに上り詰めた。このサップと、一部では最強説まで流れ始めたミルコとのK-1ルールでの対戦が、2003年3月30日、「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)でいきなり組まれることになる。事前情報でサップは練習不足と伝えられ、経験とパワーを兼ね備えるミルコが有利と予想されたが、当日ミルコは高熱を発し、最悪のコンディションのままでリングに上がった。試合は1R1分29秒、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。
○(1R KO)ボブ・サップ
[編集] PRIDE時代
- 2003年6月8日、「PRIDE.26」からPRIDEシリーズに本格参戦。ルールは1R10分2-3R5分の純PRIDEルール。これまでVTではプロレスラーや階級差のある相手と戦ってきたミルコに、一部からはその実力を疑問視する声もあったが、当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングを問題なく倒したことにより、ようやくその実力が本物であることが認められるようになった。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイで放送され、視聴率が70%を超えた。
○(1R TKO)ヒース・ヒーリング
- ○2003年8月10日、「PRIDE GP 2003」でイゴール・ボブチャンチンに左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルへの挑戦を決定的なものにする。
- ○2003年10月5日、「PRIDE武士道」に電撃参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。
- 2003年11月9日、「PRIDE GP 2003 決勝戦」(東京ドーム)。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったが(正式決定には至っていなかった)、ヒョードルの怪我により、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと暫定王座を賭けて対決することになる。PRIDE初代ヘビー級王者として名声を欲しいままにしていたノゲイラだったが、ヒョードルにベルトを奪われた後は、その存在がやや薄れていた。事前予想では飛ぶ鳥を落とす勢いのミルコが有利と言われた。ノゲイラのタックル技術では、ミルコをテイクダウンするのは難しいだろうという見解が多くを占めていた。そして試合は大方の予想通り、ミルコがノゲイラを打撃で圧倒し、1R終了間際には左ハイキックがノゲイラの頭部をかすめ、決定的なチャンスもあった。ついに念願のベルトに手を届きかけたミルコだが、しかし2R開始直後、ノゲイラに初めてテイクダウンを奪われると、リバースしようとした際に腕ひしぎ十字固めを取られ、ついに2R1分45秒、無念のタップを叩いた。これにより総合格闘技での無敗記録は7でストップ。ミルコのタイトル奪取への道のりは、振り出しに戻った。試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。
●(2R ギブアップ)アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ
- 2003年、クロアチア社会民主党から出馬し初当選してクロアチア国会議員になる。
- 2003年12月31日、大晦日格闘技興行戦争勃発。2001年のミルコ対藤田戦以降から続いていたK-1とPRIDEの蜜月は、この年に終わりを告げ、両者は興行や選手の引き抜きを巡って大きく対立することになる。この決裂を決定的にしたのが、ミルコのPRIDE完全移籍と言われている。ミルコは大晦日に行われた3興行のうちの、日本テレビが放送した「INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ 夢をもて」(TBSはK-1が主催する「K-1 Premium 2003 Dynamite!!」、フジテレビはPRIDEのDSEが主催する「PRIDE SPECIAL 2003 男祭り」をほぼ同時刻に放送)に出場予定だったが、直前になって出場をキャンセルしている。
- 2004年、日本滞在時に、日本の内閣総理大臣小泉純一郎と面会。
- 2004年2月1日、「PRIDE.27」(大阪城ホール)でロン・ウォーターマンと対戦。これまでPRIDEにとっては外敵であったミルコだが、鮮烈なKO劇を量産したこと、ノゲイラ戦での敗北によりPRIDEファンの溜飲を下げたこと、敗北の後に見せた意気消沈した表情を見せたことが、多くのファンの心を掴み、PRIDEでも1、2を争う人気ファイターとなっていた。ミルコの入場シーンでは容赦のないブーイングが浴びせられることが常であったが、この大会では初めて声援がブーイングを上回った。試合は左ハイキックでダウンを奪った後、パウンドの連打で1R4分37秒、ミルコのKO勝利。この試合で注目すべきは、ミルコのグラウンド技術が短期間で驚くべき水準に向上していたことである。次戦のランデルマン戦の敗北で一時注目されなくなるが、この時点でミルコは、ノゲイラ戦の敗北を厳しく受け止め、自分がヒョードル戦を手に入れるために何が必要かを考え抜き、その結果として、グラウンド技術(特にディフェンス)を徹底的に磨き上げていたことを、この試合は証明した。
○(1R KO)ロン・ウォーターマン
- ○2004年2月15日、「PRIDE.27」から2週間後の「PRIDE武士道 其の弐」で山本宜久と対戦、1R2分12秒でKO勝利。
- タイトル奪取を諦めないミルコはこの年に行われたPRIDEヘビー級GPに照準を合わせる。人気実力ともにPRIDEトップクラス入りを果たし、PRIDE3強の1人となっていたミルコは、GPの優勝候補の1人に挙げられていた。そして2004年4月25日、「PRIDE GRAND PRIX 2004 開幕戦」でケビン・ランデルマンと対戦する。誰もがミルコの勝利は揺ぎ無いものと思っていたが、1R1分57秒、まさかの失神KO負けを喫する。奇しくもトーナメントの緒戦、相手は髪を金髪に染めた筋肉隆々の黒人ファイター。多くのファンが、3年前にマイケル・マクドナルドに敗北した姿と重ねた。この試合は、自分の仕上がりに自信を持つと相手を見下し、慢心と油断が出て敗北を喫するという彼の悪い「癖」が出た一戦であった。また、ランデルマン側はミルコの左ハイキックの弱点を研究しており、ミルコが、必殺技である左ハイキックを放つときにできる刹那の隙を見極めていたことも敗北の要因であった。ミルコは再びどん底を味わうこととなる。
●(1R KO)ケビン・ランデルマン
- 2004年5月23日、「PRIDE武士道 其の参」(横浜アリーナ)で金原弘光と対戦。まさかの敗北からわずか1ヵ月後の復帰戦となる。「とにかく勝利が欲しかった」というミルコは試合開始早々からフルスロットルで攻め立てるも、金原が粘り、後半失速。終盤にはグラウンドで肩固めを見せる場面もあったが、結局判定まで持ち込まれる羽目となってしまった。敗北からわずか1ヶ月の復帰戦で勝利はしたものの、PRIDE3強の1人としては格下相手に判定へもつれ込む戦いぶりに、その後のミルコに不安を覚える者もいた。
○(3R判定3-0)金原弘光
- ○2004年7月19日、「PRIDE武士道 其の四」で大山峻護と対戦、1R1分00秒左アッパーでKO勝利。復活の兆しを見せる。
- 2004年8月15日、「PRIDE GP 2004 決勝戦」。本来ならトーナメントの頂点を賭けてこの場に居るはずだったミルコは、ワンマッチで参加を許された。対戦相手は王者ヒョードルの弟エメリヤーエンコ・アレキサンダー。経験で勝るミルコが有利と見られていたが、体格で大きく上回り、成長株の1人であるアレキサンダーの前に、ミルコの勝利を危ぶむ声も多く聞かれた。しかし、蓋を開けてみれば1R2分9秒左ハイキックKOでミルコの圧勝。ハッスル旋風を巻き起こしていた小川直也が惨敗し、凡戦が連続したことで、フラストレーションが溜まっていた観衆は、ミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。
○(1R KO)エメリヤーエンコ・アレキサンダー
- 2004年10月31日、「PRIDE.28」で第10代パンクラス無差別級王者で元UFCヘビー級王者 ジョシュ・バーネットと対決。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、試合は1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップにより、消化不良のまま終わった。
○(1R ギブアップ)ジョシュ・バーネット
- ○2004年12月31日「PRIDE 男祭り 2004 SADAME」(さいたまスーパーアリーナ)でケビン・ランデルマンと再戦。今度は左ハイキックを自ら封印し、1R41秒フロントチョークで一本勝ちを収める。
- ○2005年2月20日「PRIDE.29」(さいたまスーパーアリーナ)でマーク・コールマンに1R3分42秒右アッパーでKO勝ちを収め、エメリヤーエンコ・ヒョードルのPRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得する。この試合では、ミルコのタックル切りの技術と体幹の強さが存分に発揮された。コールマンはミルコに何度もタックルを仕掛けたが、その全てがミルコのパワーと技術で完全に封じられた。アッパーに沈む直前のコールマンは、ミルコに自らの自慢のタックルを完全に封じられ、半ば戦意を喪失していた。ミルコは、ランデルマン戦の敗北という「誤算」はあったものの、ロン・ウォーターマン戦でグラウンド技術を、エメリヤエンコ・アレキサンダー戦ではキックを、そしてコールマン戦ではタックルの防御技術と体幹の強さを見せつけ、いよいよヒョードル戦へ向けてミルコの自己改造が完成しつつあることを窺わせた。
- ○2005年6月26日「PRIDE GP 2005 2ndROUND」(さいたまスーパーアリーナ)でエメリヤーエンコ・ヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦、1R3分53秒左ミドルキックでKO勝ち(この試合は、ミルコの調整のためのスパーリングのようであった)。
- 2005年8月28日「PRIDE GP 2005 決勝戦」(さいたまスーパーアリーナ)。2003年にタイトル挑戦を表明して以来、紆余曲折を経てようやくタイトル挑戦にこぎつけたミルコ。その間、ヒョードルは無敗で王座を守り、2005年のヘビー級GPを制して2冠を達成、絶対王者の名を欲しいままにしていた。すでにノゲイラは2度もヒョードルに完敗しており、他を見回してもヒョードルに勝てそうなファイター、果てはヒョードルの相手が務まりそうなファイターすらおらず、唯一、キックで若干のアドバンテージを持つミルコだけがヒョードルに勝てる可能性を秘めていると言われていた。当日はミドル級GP決勝も同時開催されていたため、メーンはトーナメント決勝に譲ったものの、ファンの話題はミルコとヒョードルによるタイトルマッチが独占していた。世紀の一戦は凄まじい打撃の攻防から幕を開けた。正確さで勝るミルコが的確に打撃をヒットさせるが、ヒョードルもオランダのルシアン・カルビンの元で特訓を積んだ打撃で応戦。1Rには左ストレートでヒョードルを追い込む場面もあったが、ヒョードルにルシアン・カルビンから対ミルコの秘策として伝授されたミドルへの膝上げカットを使われ、ミルコは左足の甲を痛め、以降ミルコ最大の武器でもある左ミドルキックと、それを伏線とした一撃必殺の左ハイキックを出せなくなった。また中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。スタミナを奪われたミルコは2R以降失速。3Rにはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガード・ポジションでよく耐え、お互い死力を尽くした戦いとなったが、ヒョードルの優位は動かず、念願のタイトルマッチはグラウンドで下になったまま試合終了のゴングを迎えた。判定はフルマークでヒョードルの完勝。2年越しの王座奪取挑戦は、失敗に終わった。
●(3R判定0-3)エメリヤーエンコ・ヒョードル
- 2005年10月23日「PRIDE.30」(さいたまスーパーアリーナ)で、前回消化不良のまま終わったジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論を、バーネットは実践。20kg上回る体格で突進されたミルコは、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。スタンドではついに挽回することができなかったが、逆にグラウンドでマウントポジションを奪うなどして優位に進める。ストライカーのミルコがグラウンドで優位に立ち、本来はグラップラーのバーネットがスタンドで優位に立つという、奇妙な展開が続いたが、ミルコは何とか判定勝利を収めた。
○(3R判定3-0)ジョシュ・バーネット
- 2005年12月31日「PRIDE 男祭り 2005 ITADAKI」(さいたまスーパーアリーナ)において、この年からPRIDE参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれる。ミルコは入場曲を変え、シューズを履くといういつもとは違う雰囲気で登場。試合も序盤から調子が上がらず、ハントペースに。左ハイキックがヒットする場面もあったが、ハントはものともせず、バーネットの持論を実証される形でミルコは常にプレッシャーを掛け続けられた。結局判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。足首や甲の腫れ、高熱によるコンディション不良があったものの、この2戦で弱点をさらけ出してしまったミルコの評価は、ヒョードルとのタイトルマッチを頂点に、このまま下降線を辿るかと思われた。
●(3R判定1-2)マーク・ハント
- 2006年にはPRIDE無差別級GPが行われ、5月5日には「PRIDE無差別級グランプリ2006 開幕戦」(大阪ドーム)が開催された。ミルコはエントリーされるも、彼を優勝候補に挙げる者は少なかった。1回戦は2003年にミルコが藤田を血祭りにあげた直後に、対戦希望者として真っ先に手を挙げた美濃輪育久と対戦、1Rわずか1分10秒でKO勝利。
○(1R KO)美濃輪育久
- 2006年7月1日「PRIDE無差別級グランプリ2006 2nd ROUND」(さいたまスーパーアリーナ)で、日本重量級のエース吉田秀彦とメインの試合で対戦。ミルコに対して自信をうかがわせていた吉田だが、ミルコのローキックには全くの無警戒で、ミルコは吉田の足をなんなく破壊し、1R9分21秒TKO勝利。決勝へと駒を進めた。
○(1R TKO)吉田秀彦
- 2006年9月10日「PRIDE無差別級グランプリ2006 FINAL ROUND」(さいたまスーパーアリーナ)。ここまでとんとん拍子で勝ち進んできたミルコだが、やはり彼を優勝候補と見る者は少なかった。決勝はファン投票によりカードが組まれ、ミルコは準決勝でヴァンダレイ・シウバと当たることになった。2002年の激戦の後から待望された一戦である。もはやグリーンボーイではないミルコは、グラウンドで上を取ると容赦のないパウンドをシウバに浴びせた。スタンドに戻れば左ストレートでダウンを奪うと、右目を腫らして視界を失ったシウバに左ハイキックを見舞った。これがクリーンヒットし、1R5分22秒シウバは糸が切れたように倒れ、因縁の対決はミルコの完勝に終わった。
○(1R KO)ヴァンダレイ・シウバ
- 同日に行われた決勝の相手は三度の対戦となるジョシュ・バーネット。前回ではスタンドでお株を奪われたミルコだが、今回は独壇場となり、バーネットを攻め立て、ついにはダウンを奪う。今までのミルコはグラウンド状態は極力回避し、有利な状況でも攻めようとはしなかったが、この日のミルコは違った。仰向けのバーネットのガムシャラに鉄槌を落とす。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットはたまらずタップをした。アクシデントも手伝ったが、内容はミルコの一方的なものだった。バーネットは決勝の前にアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと死闘を演じており、シウバと対戦したミルコとではアンフェアだという意見もあったが、試合後バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と語り、後日も「あの日のミルコには誰も勝てないよ」とミルコの勝利を素直に讃え、ファンの多くも当日のミルコの鬼神のような強さを認めている。「無冠の帝王」という通り名をついに返上する時がきたミルコは、試合後のセレモニーで涙を流し、ターミネーターと言われたミルコの男泣きする姿を見て、会場からは暖かい拍手が送られた。
○(1R ギブアップ)ジョシュ・バーネット
- 2006年12月30日、UFC参戦を表明。PRIDEのアメリカ初興行となる「PRIDE.32」や大晦日の「PRIDE男祭り2006-FUMETSU-」への出場を予定されていたが、結局両方とも不参加となった。
[編集] UFC時代
- 2007年2月3日、「UFC67」でエディ・サンチェズをマウントパンチで仕留め、アメリカ進出を順調なスタートで切った。
○(1R TKO)エディ・サンチェズ
[編集] ファイトスタイルと評価・批判
K-1初登場当時の1996年は、身体能力の高さは窺えたものの、その他にはさして光るものを持たなかったミルコだが、3年のブランクを経て復帰した1999年には武器に多彩さを増し、いまや代名詞となっている左ハイキックも積極的に使うようになった。しかしこの頃もっとも冴えていたものはクリンチワークであり、KOを奪えない相手にはクリンチで相手の攻撃をしのぎ、その合間に打撃を打ち込んでポイントを稼ぐというのが、ファイトスタイルの基本となっていた。鮮やかなKOに眼を奪われがちだが、凡戦も多く、試合終盤にポイントを守りにいく姿勢は精神的な弱さとファンの目に映ることも少なくなかった。
総合格闘技への参戦が始まると、ミルコは急速な体のビルドアップに成功する。パワーも得たミルコは徐々に一撃必殺に傾倒していくようになる。ミルコのファイトスタイルはボクシングを元にテコンドーやキックボクシングをオリジナルアレンジした物であり、試合中に放つ打撃の数は極端に少なく、ジャブは殆ど打たずに、利き手利き足での打撃に終始する。右腕はラッシュをかける時以外は、ディフェンスや距離を稼ぐ時に伸ばす程度しか使用しない。絶対の自信を持つ左ハイキックや、ミドルキックを放つまでに、その他を布石として使用する彼独自の戦法である。主な例はミドルキックやローキックで相手の注意を下にさげさせ、ガードが下がった所に左ハイキックを打ち込む方法と、相手に自分のストレートの軌道を覚えさせ、ウェービングで相手の頭が傾いたところに合わせて左ハイキックを打ち込む方法がある。特に後者は、まるで相手が自らミルコの足に当たりに行っているようにに見える。ミルコの左ハイキックは高速で相手の視界の死角から足が急に現れる軌道のためかわされにくく、まさに一撃必殺の破壊力を持つ。このため日本のファンの中ではその破壊力と決定力から「妖刀」と称され、高い人気を得ている。ただし、ミルコの打撃はある程度の間合いがないとその効果は発揮できず、プレッシャーを掛けて前へ前へと進んでくる相手を苦手としている。
また、相手の打撃に対してはガードをほとんど使わず、スウェーとステップワークでかわす。多くの打撃系格闘家が苦手としている組み技に対するディフェンスにも定評があり、特にタックルを切る技術の会得の早さには目を見張るものがある。
一方でK-1時代から通して指摘されているのがスタミナ不足であり、本人もそのことを認めている。1Rでは高いKO率を誇るが、2R以降は口を開けて呼吸する姿が目立つ。これは、K-1時代の怪我により、鼻での呼吸がうまくできなかったことが原因である。そのため鼻へ塗り薬を処方し、スムーズに呼吸できるようになった。本人も、鼻呼吸によるスタミナ不足克服を、無差別級グランプリの勝因に挙げている。
ミルコのPRIDE参戦は、総合格闘技に1つ上の次元の打撃技術を持ち込んだ。手数とパワーが重視されていた世界で、ミルコの打撃の正確さとKOに至るまでの布石の張り方の巧妙さは群を抜いてた。「総合のリングでK-1をする」という評価からも分かるように、ミルコの打撃はストライカー全盛と言われたPRIDEの中であっても、なお異彩を放っていた。その意味でミルコは総合格闘技界に革命を起こしたと言えるが、彼の存在はK-1とPRIDEの短期間の邂逅の中で生まれた副産物のようなものであり、ミルコの系譜はミルコ一代で終わる可能性が高い(ミルコ以前にはUFCを制したモーリス・スミスがいるが、総合格闘技に転向した時のスミスはすでに全盛期を過ぎており、また総合格闘技の市場も小さかったことからミルコほどのインパクトは残せなかった)。総合格闘技への参戦当初はK-1という巨大な後ろ盾があったため、ルールの面で優遇され、また「プロレスハンター」という肩書きを得たことにより、対戦相手が純粋な総合格闘技家ではないプロレスラーに集中したことで、ミルコには総合格闘技に順応する猶予が与えられたことは、ミルコがこの世界で成功することができた大きな要因である。例えばミルコがPRIDEに初参戦し、総合格闘技では殆ど実績のない高田と世紀の凡戦を演じた「PRIDE.17」では、同じK-1の刺客としてマット・スケルトンが殆ど練習期間を与えられないまま総合に初挑戦し、トム・エリクソンに惨敗している。もしミルコとマットの対戦相手が逆だった場合、ミルコの総合無敗記録が続いていたかは疑わしい。本人の優れた才能はもちろんだが、このような特異で恵まれた環境があったからこそ、ミルコ・クロコップという希少な総合格闘技家が誕生したのである。とはいうものの、藤田との一戦は、「現役トップストライカーが、MMAのリングで戦う史上初めての試み」であり、その革命に名乗りを挙げたのが他でもないミルコであったことも事実である。
打撃出身のミルコは当初グラウンドを苦手としていたが、PRIDE参戦、特にノゲイラ戦敗北以降、急速にグラウンドの技術を向上させている。ヒョードル戦では、スタミナ切れとヒョードルのパワーの前にグラウンドでの防戦を強いられた2・3ラウンドで、ヒョードルの攻撃をグラウンド技術でほぼ完璧に封じ込めた。ハイキックに見られるようにもともと強力なパワーを持つ脚力を最大限利用してヒョードルをガードポジションに封じ込め、両手でヒョードルの腕をその腕捌きで見事にコントロールした。判定勝ちしたヒョードルだったが、ミルコに決定的なダメージを与えることができなかったのは、急速に向上したミルコのグラウンド技術によるところが大きかった。試合後、ミルコは、ヒョードル戦で判定まで持ちこめたのは、向上したグラウンド技術によるものだったとコメントしている。
当初、ミルコの歴代対戦相手の中には階級や実力の面で大きく差がある者も少なくなくその組み合わせを危険視したり公平性、そしてミルコ自身の実力について疑問視する意見も多くあった。これらはミルコ個人の問題というよりも日本の格闘技イベント全体の体質の問題と言えるが、ミルコが大会直前になって出場を要請し運営側が急遽オファーせざるを得なかったというケースもあった。しかし、ヒョードルの打倒を目指して自らを「改造」し「強化」してきたミルコは、いつしか、かつてのK-1時代はもちろん、PRIDE転向後ヒョードル戦以前のミルコ自身に比して、パワー、技術(特筆すべきは、グラウンドの技術)ともにはるかに凌駕するにいたった。
ミルコの鮮やかなKOシーンは、PRIDEのルールも変えてしまったと言われている。実際、近年のPRIDEのルールの改変は明らかにストライカー寄りのものであり、ミルコもその恩恵を受けている。しかしこれは競技を統括する側の問題であり、ミルコ個人に非難の矛先を向けるのはお門違いである。