ミカエル・ラウドルップ
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ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup、1964年6月15日 - )は、デンマーク・コペンハーゲン出身の元同国代表サッカー選手(MF)、サッカー指導者。同じく元サッカー選手であった弟のブライアン・ラウドルップとともに、「ラウドルップ兄弟」として有名。
地元デンマークのクラブチーム・ブロンビーでキャリアをスタートし、芸術的なパスワークとセンスで中盤の核として活躍。1982年6月15日のノルウェー戦でデンマーク代表デビューを飾る。その後、1983年にセリエA・ラツィオへ移籍。その後ユヴェントスにも在籍し,プラティニらとともにトヨタカップ出場のため来日している。1989年、リーガ・エスパニョーラ・バルセロナへ移籍してからヨハン・クライフ率いるチームで才能を発揮し、ロマーリオ、ストイチコフ、クーマンといったスタープレーヤーととも4連覇を達成し黄金期を築いた。しかし、1994年にこともあろうに宿敵・レアル・マドリードへ移籍し周囲を驚愕させた。これについては、「どんなに成功しようとも、同じ所に長期間居すぎるとやがては幻滅を感じてくるものです。」と語っている。しかし、当然のようにバルセロナ・サポーターからは強烈なブーイングを浴びた。またこれを機に、この後レアル・マドリードとのライバル間でたびたび移籍が起こることになる。レアル・マドリードに入団した最初の年もリーグ優勝を果たし、結果として5年連続でリーガ・エスパニョーラ優勝を経験した。
その後、1996年に当時ジャパンフットボールリーグ(実質2部に相当)であったヴィッセル神戸に入団してJリーグ昇格に貢献。日本を離れた後はアヤックスに所属したのを最後に1998年に現役を引退。現在はかつてプレーしていたブロンビーの監督を務めている。
- レアル・マドリッドへの移籍の理由としては、他に度重なるクライフからの批判があったからだとされる意見もある。本来、セカンド・トップで得点力よりもゲームメイクを売り物にしていた彼にとって、得点が少ないことは少々お門違いな点である。
- ロマーリオやチキ・べギリスタインへ絶妙のアシストを繰り出していた。まさに、クライフ・バルサにおいてはベップ・グラウディオラやロナルド・クーマン、ウリスト・ストイチコフらとともに、欠かせない選手であった。
[編集] 選手経歴
- ブロンビー(デンマーク) 1971-1978
- コペンハーゲンBK(デンマーク) 1978-1981
- ブロンビー(デンマーク) 1982-1983
- ラツィオ(イタリア) 1983-1985
- ユヴェントス(イタリア) 1985-1989
- バルセロナ(スペイン) 1989-1994
- レアル・マドリード(スペイン) 1994-1996
- ヴィッセル神戸(日本) 1996.7-1997.7
- アヤックス(オランダ) 1997-1998
[編集] 指導者経歴
- ブロンビー(デンマーク) 2002-
[編集] 個人成績
年度 | チーム | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 |
---|---|---|---|---|---|---|
1996年 | 神戸 | 5 | JFL | 12試合5得点 | - | 3試合2得点 |
1997年 | 神戸 | - | J | 3試合0得点 | 6試合1得点 | - |
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