ミッドウェイ (空母)
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艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1943年10月27日 |
進水: | 1945年3月20日 |
就役: | 1945年9月10日 |
退役: | 1992年4月11日 |
除籍: | 1997年3月17日 |
その後: | 博物館として公開 |
性能諸元 | |
基準排水量: | 建造時:45,000 トン |
満載排水量: | 建造時:60,000 トン 退役時:74,000 トン |
全長: | 296 m (972 feet) |
全幅: | 34.4 m (113 feet) |
吃水: | 10.5 m (34.5 feet) |
機関: | ウェスティングハウス式蒸気タービン 4軸, 212,000hp |
速力: | 最大33 ノット (60 km/h) |
航続距離: | 11.520 海里(15ノット時) |
乗員: | 士官、兵員 4,104名 |
兵装: | 5インチ砲18基 40mm機銃84基 20mm機銃68基 |
艦載機: | 137機(規定) 100機(第二次世界大戦 - 朝鮮戦争) 68機(ベトナム戦争 - 退役時) |
ミッドウェイ(USS Midway, CVB/CVA/CV-41)は、アメリカ海軍の航空母艦。ミッドウェイ級航空母艦のネームシップ。第二次世界大戦後に就役し、ベトナム戦争や湾岸戦争に参加した。2006年現在同艦はカリフォルニア州サンディエゴで博物館として公開されている。
目次 |
[編集] 初期の運用
ミッドウェイは1943年10月27日、ヴァージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。本級の革新的な船体設計は、未着工に終わったモンタナ級戦艦を基にした物であった。ブラッドフォード・ウィリアム・リプリー・ジュニア夫人によって1945年3月20日に進水し、ジョーゼフ・F・ボルジャー艦長の指揮下1945年9月10日に就役した。
慣熟訓練をカリブ海で行った後、ミッドウェイは大西洋艦隊に加わり、ノーフォークを母港とする。1946年2月20日から第1空母部隊の旗艦を務め、3月に寒冷天候下での機器試験を北大西洋で行う。東海岸およびカリブ海での訓練は1947年9月のオペレーション・サンディーがハイライトとなった。ミッドウェイは同オペレーションにおいて、捕獲したドイツのV2ロケットを飛行甲板から発射し、最初の移動発射台となった。
1947年10月29日、ミッドウェイは第六艦隊に配属され、地中海への最初の航海を行う。海/空軍力の強力な拡張が行われ、ミッドウェイもより大型な航空機を運用するための補強と、通信設備の増強が行われた。1952年にミッドウェイはNATO軍との北海演習に参加し、10月1日に艦種番号が CVA-41へ変更された。
ミッドウェイ1954年12月27日にノーフォークを出港し、喜望峰を経由して台湾に向かう。台湾では西太平洋での作戦参加のため第七艦隊に加わり、1955年6月28日まで活動した後ピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホールに入る。オーバーホールは1957年9月30日まで行われた。その間に広範囲な近代化計画 (SCB-110) に基づき、ミッドウェイは艦首をエンクローズ化した「ハリケーン・ボウ」、飛行甲板後端のエレベータ、アングルド・フライトデッキおよび蒸気カタパルトが増設された。
ミッドウェイは1958年に第七艦隊に配属され、カリフォルニア州アラミダが母港となる。1961年春のラオス危機では南シナ海に展開する。1962年にはその艦載機が日本本土、朝鮮半島、沖縄、フィリピン、台湾の防空システムをテストした。ミッドウェイは1965年3月6日に再び極東へ展開し、4月中旬から南北ベトナムに対する艦載機による攻撃を行う。ベトナム戦争において当時ミッドウェイに展開していた第二空母航空隊 (CVW-2) は、6月17日に2機のMiG-17戦闘機を撃墜した。これは東南アジアにおいて確認された、最初の戦果であった。
1965年11月23日にアラミダに帰港し、ミッドウェイは1966年2月11日にサンフランシスコ湾海軍造船所のドックに入る。ここで大規模な近代化 (SCB-101.66) が行われるが、非常に高価な物となり論争の的となっている。この近代化によりフライトデッキは11,300m2から16,200m2まで拡張され、エレベータは可搬重量が2倍に増強、再配置された。また、新型カタパルト、着艦制動装置、エアコンの集中化が行われ、予算は8,800万ドルから2億200万ドルまで超過した。このためフランクリン・D・ルーズベルト(CV-42)のために計画された同様の近代化はキャンセルされた。ミッドウェイは1970年1月31日に再び作戦行動に入る。
[編集] ベトナムへ
ミッドウェイは1971年5月18日に再びベトナムへ戻り、ヤンキー・ステーションでハンコック (CV-19) に代わって同月末まで活動を行う。その後ヤンキー・ステーションを6月5日に出港し、10月31日に任務を完了、11月6日に母港へ戻った。
ミッドウェイは、第5空母航空団 (Carrier Air Wing 5, CVW 5) を乗艦させると、1972年4月10日に再びベトナムに向けてアラミダを出港する。5月11日にミッドウェイの艦載機はコーラル・シー (CV-43)、キティホーク (CV-63)、コンステレーション (CV-64) の艦載機と共に北ベトナムの港に機雷敷設を行う。1972年の夏を通じてミッドウェイはベトナムで作戦行動を行った。
1972年8月7日、ミッドウェイから発艦したHC-7 Det 110ヘリコプターはサラトガ (CV-60) からの探索機を支援し、北ベトナムへ不時着したパイロットの捜索作業を行った。サラトガからのA-7 コルセアIIは8月6日、ビン北西部、30km内陸地点で地対空ミサイルによって撃墜されていた。HC-7はパイロットを救助するため山地を飛行し、降下地点特定のためサーチライトを使用したことから激しい対空放火を受けたが、無事パイロットを救助、沖合の揚陸艦へ帰還するのに成功した。これは1968年以来北ベトナムへ最も深く入り込んだ救難ヘリコプターの飛行であった。HC-7 Det 110はその救助任務を継続し、1972年の終わりまでに48回の救助作業に成功した。これらのうち35回は戦闘状態の下に行われた。
1973年10月5日、ミッドウェイと CVW 5は横須賀に配属が決定し、日本における初の空母戦闘部隊として1972年8月31日に配備された。外国の港での乗員とその家族の士気要因に加えて、経済状況が空母運用の縮小を要求したため、極東における空母3隻態勢と相まってその動きは戦略的な重要性を持つことになった。
[編集] オペレーション・フリークエント・ウィンド
北ベトナム軍が南ベトナム国土の3分の2に侵攻するに及んで、ミッドウェイおよびコーラル・シー (CV-43)、ハンコック (CV-19)、エンタープライズ (CVN-65)、オキナワ (LPH-3) は1975年4月19日に南ベトナムの沖合に展開した。10日後、第七艦隊によってオペレーション・フリークエント・ウィンドが実行された。サイゴン陥落後、何百名ものアメリカ人及びベトナム人が沖合に待つ艦艇に収容された。ある南ベトナム軍のパイロットは、自らの家族とともに小型機でミッドウェイに着艦した。このオペレーション中に、ミッドウェイは搭載していた航空団の戦闘機を母港の横須賀に待機させ、サイゴンからの避難民を南シナ海で巡航する艦隊に送り届けるための空軍のCH-53 シースタリオンヘリコプター10機を運搬した。ミッドウェイは作戦終了の 1ヶ月後に本来の航空団を再び乗艦させた。
[編集] 1980年代
1980年代は、横須賀を母港として他の空母の支援に当たった。
1986年に、アメリカ海軍空母として最後のF-4SとA-7の発艦ミッションが行われた。その後、大規模な近代化改造が施され、艦載機としてF/A-18が配備された。
[編集] 湾岸戦争
1990年8月にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が発生すると、アメリカ軍はデザート・シールド作戦の名称で、サウジアラビアおよびその周辺に兵力を展開した。ミッドウェイもその一環として、11月1日より北アラビア海に展開した。そこで、海兵隊の上陸演習支援などを行った。
湾岸戦争開戦翌日の1991年1月16日にレンジャーとともにペルシャ湾に入り、そこより航空攻撃を行った。戦争中は同地に留まり、母港の横須賀帰港は戦争終了後の3月11日のことである。
[編集] 退役
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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