リヒテンシュタイン家
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リヒテンシュタイン家(リヒテンシュタインけ)は、ヨーロッパのドイツ系貴族家。その一族はチェコ、ハンガリー、オーストリアなどに分散している。
リヒテンシュタイン家の当主は代々公爵または侯爵(Fürst)の称号を継ぐとともに、神聖ローマ帝国期の領邦国家を引き継いだ小国家であるリヒテンシュタイン公国の国家元首の地位をも継承する。注
リヒテンシュタイン公国はきわめて小規模な国家だが、リヒテンシュタイン家が国外に持つ所有地は公国の何倍もの面積にもなる。リヒテンシュタイン家はこの財力を基礎として、18世紀以来文化・芸術の保護者としても活動している。またリヒテンシュタイン家は公国から歳費を支給されておらず、経済的に完全に自立している。リヒテンシュタイン家が私有する財産もリヒテンシュタイン公国とは無関係に、ハプスブルク家の重臣として蓄積されたものであり、むしろ公国がリヒテンシュタイン家に経済的に従属している観すらある。
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[編集] 歴史
リヒテンシュタイン家の名が初めて歴史上で使われたのは12世紀のことで、ウィーンの近くにある城、リヒテンシュタイン城の城主となったフーゴが、居城の名をとって家名としたのに始まっている。以来、リヒテンシュタイン家は諸侯の資格をもたない下級貴族ながらも、神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部であったオーストリア地方北東部の領主家として継続した。
14世紀からはオーストリアの領主となったハプスブルク家に仕えた。16世紀には3家に分家するが、長男のカールは1608年に侯爵(Fürst)の称号を与えられ、三十年戦争中の1623年に、戦争継続のために子飼いの貴族を諸侯に叙爵する勅書を乱発していた、時の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の手により帝国諸侯(Reichsfürst)に叙任された。
1699年、カールの孫ハンス・アダム1世は、オーストリアの西にあるシェレンベルク男爵領を購入してその領主となり、1712年には隣接するファドゥーツ伯領を購入、シェレンベルク男爵領にあわせて領有した。この2つの所領が現在のリヒテンシュタイン公国の前身である。ファドゥーツ伯領購入と同じ年、ハンス・アダム1世が死亡し、カールが帝国諸侯に昇進したときに一族の3分家の間で結ばれた契約に従って、兄弟の最年長の子孫であるカールの弟グンダカルの子孫アントン・フローリンがリヒテンシュタイン公の称号を継いだ。1719年、アントン・フローリンの持つ2つの隣接した所領は、皇帝によって神聖ローマ帝国に属する領邦国家、リヒテンシュタイン公国として認められて、当時のドイツに数多く存在していた領邦のひとつとなった。
リヒテンシュタイン家は領邦君主となった後もハプスブルク家を主君として仕え、18世紀末の当主ヨーハン1世はオーストリア軍の司令官に就任したが、1806年に神聖ローマ帝国が解散されると、他のドイツ領邦君主と同じように独立小国の君主になった。ウィーン会議後にはドイツ連邦に参加したが、オーストリアとスイスに挟まった位置のために1871年のドイツ帝国結成には参加することなく、そのまま独立国の君主として残ることになる。
この間も、一族は先祖から受け継いだ領土をハプスブルク帝国内の各地に広げ、領邦の外のプラハやモラヴィアなどにも領土を持っており、主たる居宅もウィーンやモラヴィアにあったが、1919年のチェコスロバキアの独立と、1945年のチェコの共産化によって多くの家産が失われてしまった。これに代わってリヒテンシュタイン家の財政を支えているのは、1921年に設立されたリヒテンシュタイン銀行である。
1938年にはヨーゼフ2世がファドゥーツの城に移り、ここが公家の居所に定められた。
[編集] 歴代君主
- ヨーゼフ・ヴェンツェル (1712年 - 1718年)
- アントン・フローリアン (1718年 - 1721年)
- ヨーゼフ・ヨーハン・アダム (1721年 - 1732年)
- ヨーハン・ネポムク・カール (1732年 - 1748年)
- ヨーゼフ・ヴェンツェル (復位:1748年 - 1772年)
- フランツ・ヨーゼフ1世 (1772年 - 1781年)
- アロイス1世 (1781年 - 1805年)
- ヨーハン1世 (1805年 - 1836年)
- アロイス2世 (1836年 - 1858年)
- ヨーハン2世 (1858年 - 1929年)
- フランツ1世 (1929年 - 1938年)
- フランツ・ヨーゼフ2世 (1938年 - 1989年)
- ハンス・アダム2世 (1989年 - )
[編集] 注
リヒテンシュタイン家の当主の称号(英・仏:prince, 独:Fürst)は「公」とも「侯」とも訳される。一方、同じ称号であるにも関わらずモナコの場合には「大公」と訳されることも多い。
この称号は、イギリスやフランスでは公(英:duke, 仏:duc, 独:Herzog)よりも上位の称号となっている(そのためしばしば「大公」と訳される)のに対し、近代ドイツの爵位体系では一般に公の下位、伯(英:earl, count, 仏:comte, 独:Graf)の上位に置かれることが多く、ドイツには外国の侯(英・仏:marquis)に対応する爵位として辺境伯(英:margrave, 独:Markgraf)や方伯(英:landgrave, 独:Landgraf)や宮中伯(英:count palatine, 独:Pfalzgraf)があるが、いずれも「侯」とは訳さないため、公と伯の間にあるFürstを「侯」と訳すことが多いからである。なお、神聖ローマ帝国においてFürstは諸侯を意味し、称号ではなかった。例えば諸侯のうち、皇帝(ドイツ王)の選挙権を有する者は「選帝侯」(英:prince elector, 独:Kurfürst)と呼ばれる。
このような混乱が起こるのはそもそも、ヨーロッパ諸国の爵位は国によって事情が異なる上に、日本で爵位の称号に使われている古代中国の爵位制度とは体系が全く異なるためである。実際には、公侯伯子男の五等爵を単純に当てはめて理解することは非常に難しい。prince系の称号に統一的な訳語が用意されていないために混乱が生じたとも言えよう。
[編集] 外部リンク
- リヒテンシュタイン公家の公式サイト(ドイツ語、英語)
- リヒテンシュタインの歩き方(日本語)
- 世界帝王事典 - リヒテンシュタイン家(日本語)
- Encyclopedia of Austria - Liechtenstein, Fürstenfamilie(英語)
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