上川徹
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上川 徹(かみかわ とおる、1963年6月8日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、日本サッカー協会所属のサッカー審判員であった。2007年1月に現役を引退し、今後は後進の指導に当たる。
鹿児島高専3年終了後、東海大学を経てフジタでFWとして活躍後、1991年引退。引退後、日本初のプロサッカーリーグJリーグのために設置された選手経験者向け審判養成講座の一期生として審判員となることを決める。1994年、1級審判員を取得し、1996年にJリーグデビュー。1998年から国際主審登録され、国際Aマッチでも笛を吹いた。2002年からはJFAのスペシャルレフェリー(審判活動によって主たる収入を得る審判員)として活動していた。
2002 FIFAワールドカップで初めてW杯の主審に選ばれ、グループリーグのアイルランド対カメルーン戦を担当。2006 FIFAワールドカップでも2大会連続で主審として選出、グループリーグ開幕2戦目のポーランド対エクアドル戦と、イングランド対トリニダード・トバゴ戦を担当した。さらに、同リーグでのジャッジが評価され、日本人審判員としては初めて、廣嶋禎数とともに、決勝トーナメント3位決定戦ドイツ対ポルトガル戦の審判(主審)も務めた。同一のワールドカップにおいて、日本人審判員が3度主審を務めたのは初めて。ワールドカップの審判員は45歳が年齢の上限と定められているため、2006年のワールドカップが最後の機会(当時43歳)となった。
2006年10月、ひざの故障なども影響し、南アフリカW杯に向けて後進に道を譲るため、国際主審としては2年・国内1級審判としては7年の定年を残して勇退することを発表した。同じく2007年1月、スペシャルレフェリーを退任して現役を引退する方針を固める事となった。同年2月からは日本サッカー協会内に新設されるトップレフリー・インストラクターとして後進の指導にあたる。
現役時代は試合中にスタミナ切れにならないよう、週4回ほど5キロのマラソンをしていたとのこと。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] サッカー歴
- 鹿児島市立鴨池小学校
- 鹿児島市立鴨池中学校
- 鹿児島工業高等専門学校(3年終了)
- 在学中の1981年にはユース代表に選ばれる
- 東海大学
- フジタ
- 1991年引退
[編集] 審判歴
- 1991年 3級審判員取得
- 1992年 2級審判員取得
- 1994年 1級審判員取得
- 1998年-2006年 国際主審登録
- 2002年-2006年 スペシャルレフェリー(SR)契約
- 2007年1月 引退
[編集] 記録
[編集] 受賞歴
[編集] ドキュメンタリー
- 「にんげんドキュメント もうひとつのワールドカップ~審判・上川徹の挑戦~」 (2006年5月26日 NHK総合テレビ 午後10時00分~)
[編集] エピソード
- ポーランド対エクアドル戦ではポーランド代表のヤツェク・クシヌヴェクのシュートをノーゴールだと宣言した為、誤審だと感じたポーランドのサポーターから大ブーイングを浴びせられた。しかし、それが誤審ではなかったことはFIFAが3位決定戦も含めてその後の2試合のジャッジを任せたことからも明らかである。
- 3位決定戦となったドイツ-ポルトガル戦では巧みなジャッジで試合を進め、試合後にはポルトガル代表のスコラーリ監督やドイツ代表GKのオリバー・カーンからもジャッジを賞賛された。
- 2006 FIFAワールドカップでの的確なジャッジがロシアからの審判インスペクターの目に留まり、2006年8月20日にロシア・ウラジオストクで行われたロシア・プレミアリーグのルチエネルギヤ対スパルタク・モスクワ戦で主審を務めた。なお、欧州のトップリーグに日本人審判員が招待されて笛を吹くのは初めてのことで、ロシアリーグでアジアから審判員を招待するのも初めてのことであった(欧州から審判を招くことはあった)。
- 2003年、2006年の2度、Jリーグ優秀審判に選出されているが、2003年の初受賞時は、疑問の残る判定を連発していたこともあり、Jリーグアウォーズ会場のサポーターからは、納得のいかない声と痛烈なブーイングが起こった。上川はこのブーイングが「励みになった」と後に語っており、2006年の2度目の受賞時は、サポーターからも暖かい拍手が送られた。
- 前述のように、2003年頃までの上川は、カードを乱発して試合の流れを断つことが非常に多く、サポーターからも「Jリーグ有数の問題審判」として位置づけられていた。不自然な判定が少なく、試合も壊さないという現在の上川評が固まったのは、比較的最近のことである。当時Jリーグ最高の審判と称されていた岡田正義が、年齢を重ねるに従ってジャッジに衰えを見せ始めたことを見ても、上川の評価が審判生活晩年に至って上昇したことは特筆すべきだと言えるだろう。