仁科芳雄
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仁科 芳雄(にしな よしお、男性、1890年12月6日 - 1951年1月10日)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中にて生まれる。しばしば日本の現代物理学の父とも評される。
1921年理化学研究所(理研)の研究員として、ヨーロッパ(ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所、ゲッティンゲン大学を経てコペンハーゲン大学のニールス・ボーアの研究室で研究、その後も各国を訪問している)に留学した。1928年オスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算しクライン=仁科の公式を導いた。
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[編集] 日本の現代物理学の育ての親
1928年に帰国し、日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。1929年には、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラックを、1937年にはボーアを日本に招いている。宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。1937年(昭和12年)には小型のサイクロトロンを、1944年(昭和19年)には200トンもの大型サイクロトロンを完成させた。湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも評価されている。
[編集] 日米戦争と原爆開発「ニ号研究」
仁科は、米国の科学技術が進んでいることから日米開戦(太平洋戦争)には反対していた。仁科が作らせたサイクロトロンは、戦争のために大いに活躍するということがなかった。一方、1938年(昭和13年)にオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーらが原子核分裂を発見し、膨大なエネルギーを得られることが判明。1940年(昭和15年)、仁科は、陸軍の安田武雄陸軍航空技術研究所長からウランを用いた新型爆弾の開発研究を要請され、理論的可能性の検討に入った。アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)、仁科はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を軍に提示。この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によってサイクロトロンを破却された(日本の原子爆弾開発を参照)。
8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、原子爆弾であると断定、政府に報告した。これが日本のポツダム宣言受諾につながったといわれている。引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。
[編集] 戦後
1946年文化勲章を授与された。学士院会員、日本学術会議第1期副会長。
月のクレーター "Nishina" は彼にちなんで名づけられた。Nishina の直径は約65kmで、緯度44.6S、経度170.4Wに位置する。
仁科の死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。