原子爆弾
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原子爆弾(げんしばくだん)又は原爆は、ウランやプルトニウムなどの原子核が起こす核分裂反応を超臨界状態にすることで爆発させる核兵器である。
原子爆弾の威力は通常兵器と比べ極めて大きく、無差別かつ大量に殺戮する大量破壊兵器であるため、この兵器の保有・使用に伴う危険性は世界中で危惧されており、現在では他の核兵器と共に包括的核実験禁止条約、核不拡散条約などで規制する動きがある。
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原子爆弾の開発
原子爆弾はアメリカ合衆国が最初に開発し、1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で最初の原爆実験が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。
また実際の戦争で使用された原子爆弾は、太平洋戦争末期の1945年に日本の広島市に投下されたリトルボーイ(濃縮ウラン型)と長崎市に投下されたファットマン(プルトニウム型)の2発である。
これらの原子爆弾は大量の放射線を放出し、また放射能を有する塵などを多量に排出したため、被害は爆発の熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病や癌などの重大な病気を被爆者に引き起こし、その影響は現在も続いている。
- 詳細は#原子爆弾の使用による被害の項を参照
原子爆弾の理論と構造
核分裂に関する理論
エネルギー
原子爆弾は放射性元素の核分裂反応で放出されるエネルギーを利用する爆弾である。TNT火薬などの通常兵器に用いられる物質が化学反応によって原子間の結合エネルギーを解放するのに対して、原子爆弾では原子核を構成する核子の結合エネルギーが解放される。化学結合のエネルギーは電子ボルト (eV) のオーダーだが、核力の結合エネルギーはメガ電子ボルト (MeV) のオーダーである。そのため、原子爆弾で解放される単位質量あたりのエネルギーは通常兵器のそれに比べて約106倍も大きい。
核分裂
原子核を構成する核子は核力によって強く束縛されているため、通常はこの結合を切ってエネルギーを取り出すことは困難だが、原子番号の大きな原子核では、中性子をぶつけるなどして比較的小さなエネルギーを与えると原子核が液滴のように二つに分裂することがある。これを原子核分裂と呼ぶ。この核分裂によって、分裂前後の核子の結合エネルギーの差分が外部に放出される。
- 詳細は核分裂反応を参照。
連鎖反応
核分裂の際には通常数個の中性子が外部に放出される。そのため、核分裂を起こす物質が隣接して大量に存在する場合には、核分裂で放出された中性子を別の原子核が吸収してさらに分裂する、という反応が連鎖的に起こることがある。このような反応を核分裂の「連鎖反応」と呼ぶ。核分裂性物質の量が少ない場合には連鎖反応は短時間で終息するが、ある一定の量を超えると中性子の吸収数と放出数が釣り合って連鎖反応が持続することになる。この状態を「臨界」といい、臨界となる核分裂性物質の量を臨界量と呼ぶ。発電等に用いられる原子炉ではこの臨界状態を保持して一定のエネルギー出力を得ている。核分裂性物質が臨界量を大幅に超えて存在する場合には、分裂反応を繰り返すごとに中性子の数が指数関数的に増加し、反応が暴走的に進む。この状態を「超臨界」または臨界超過と呼ぶ。原子爆弾では核分裂性物質を短時間で超臨界の状態にする必要がある。
- 詳細は反応度 (原子力)を参照。
ウランとプルトニウム
核分裂反応を起こす物質(核種)はいくつか存在するが、原子爆弾にはウラン235またはプルトニウム239が用いられる。
ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で残りは核分裂を起こさないウラン238である。そのため、原爆に用いる為にはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能が少ない為に取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力が必要とされる。臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている[1]。広島型原爆では濃縮度約90%のウランが約60kg使用されたとされる(原子力百科事典)。起爆には後述のガンバレル方式が用いられた。
プルトニウム239は自然界には殆んど存在しない重金属であるが、原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウランのような濃縮過程を必要としない。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある[2]。放射能が強く取り扱いは難しいが、ウランを燃焼させるだけで容易に生産できる為、現在のほぼ全ての核保有国が導入している。しかし通常の工程で作られたプルトニウムにはプルトニウム240という同位体が含まれており、この同位体が高い確率で自発核分裂を起こす性質を持っている。このため、ウランの場合のようなガンバレル方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。このために後述のインプロージョン方式と呼ばれる特殊な起爆方式を用いる。長崎に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。
構造
原子爆弾の構造は単純である。本質的には、臨界量以下に分割した核分裂性物質の塊を瞬間的に集合させ、そこに中性子を照射して連鎖反応の超臨界状態を作り出し、莫大なエネルギーを放出させる、というものである。ただし実際には、爆弾に用いる物質の性質に応じて大きく2種類の構造が用いられる。
ガンバレル方式
ガンバレル(gun barrel)方式はウランを臨界量に達しない2つの半球に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させてもう一つと合体させ、球形にすることで超臨界に達するものである。広島に投下されたリトルボーイがこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされるウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。
インプロージョン方式
インプロージョン (implosion) とはexplosion「爆発」という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語であり、和訳は「爆縮」。インプロージョン方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンで採用された。プルトニウムは自発核分裂の確率が高いため、自発核分裂によって爆発が不完全に終わるのを防ぐためにこの方式が考案された。
- 詳細は爆縮レンズを参照。
しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、数学者ジョン・フォン・ノイマンの10ヶ月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。ガンバレル方式の原爆は実地テストなしで広島に投下されたが、インプロージョン方式の爆弾はこのような高精度の動作が求められたため、ニューメキシコ州アラモゴードのトリニティ実験で設計通りに作動することを確認するテストが行なわれた。この方式は前述のガンバレル式より効率が良い。核分裂反応が始まって核物質を四散させようとする圧力が働いても、爆縮による内向きの圧縮力が押さえこみ、核分裂が継続するためである。そのため、以後製造された原子爆弾は、プルトニウム型もウラン型もインプロージョン方式を用いている。
改良型の原子爆弾
第二次世界大戦後は、東西冷戦の激化とともに、アメリカ・ソヴィエト連邦を中心に重要な兵器として原子爆弾の改良が進められた。威力を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、熱核反応をプラスして300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。
この動きとは逆に日本投下時には4~5トンもあった爆弾重量を軽減させる開発も行われ、280ミリ砲から原爆の砲弾(Mk-9など)を発射する原子砲や、歩兵一人で使用可能な核無反動砲(デイビー・クロケット、威力は0.02キロトン)も製作された(いずれも現在は退役)。
原子爆弾の使用による被害
広島市
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意[1]により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空580メートルで炸裂した[2]。 爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾を「ピカドン」と呼ばれた。
爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に晒され、石材に焼き付けられた人影が今も残る[3]。また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。
爆風と衝撃波による被害も甚大で、爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが倒壊した[4]。 爆発による直接的な放射線被曝のほかに爆発後の放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生した。広島市の北西部に大量の放射性降下物を含む「黒い雨」が降った。また投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて急性障害が多発した(二次被害)。なお当時の広島市内には34万2千の人がいた。爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡した。1945年12月末までに14万人が死亡したと推定される。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。
- 詳細は広島市への原子爆弾投下を参照。
長崎市
広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29(ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンが投下した。 [5]。
投下地点は長崎市北部の松山町171番地[6]テニスコートの上空であった。当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。
- 詳細は長崎市への原子爆弾投下を参照。
関連項目
- 核兵器 - 水素爆弾 - 中性子爆弾
- 被爆者
- 原爆傷害調査委員会 (ABCC)
- ピースサイン
- Category:広島原爆
- Category:長崎原爆
- 第二次世界大戦
- Category:核実験
- 北朝鮮核問題 - 核武装論
- 原子爆弾酒
脚注
- ^ トルーマンの日記には、7月25日夜投下決意の記載がある。
- ^ 実際の爆心地の中心は戦後の調査で相生橋から300m離れた島病院の上空と推定されている。なお島病院の院長は、不在の為無事だったという。
- ^ 最近まで、そこに座っていた人間が石に焼き付けられたものだと思われていたが、近年の調査で、その石材からは人間の組織は発見されなかった。また、目撃情報として黒焦げの死体がそこにあった、というのもある
- ^ しかし爆心地から僅か700m付近で線路から脱線した状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車)は今もなお原形のままで走り続けるなど奇跡的に残った物もある。
- ^ 投下の第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、その他人口密集地福岡市、軍港のある佐世保市であった。しかし福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済み、また九州北部に濃い雲が広がり、目視で投下できる長崎に変更された。この「濃い雲」は、アメリカ軍が原爆投下前日に小倉を爆撃して、八幡製鉄所周辺から発生した「煙」とも言われる。悪天候とこの煙、及び残燃料の量から、第2候補の佐世保が原爆を投下できる限界であったが、その佐世保も十分に狙いをつけて投下できる時間的・燃料的余裕はなく、なおかつ悪天候でもあり、雲の隙間から見えた長崎市の市街地へ向けて投下せざるをえなかった、ともいわれる。
- ^ 現松山町5番地