内山小二郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内山 小二郎(うちやま こじろう、安政6年10月20日 (旧暦)(1859年11月14日) - 昭和20年(1945年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、華族。侍従武官長・第12師団長・東京湾要塞司令官を務め、階級は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に昇る。妻は貴族院議員・呉鎮守府兵器部長田中綱常海軍中将の娘。
鳥取藩士内山覚治の次男として生まれる。明治8年6月陸軍幼年学校に入り、同10年5月陸軍士官学校に入る。同12年12月22日陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月士官学校を卒業し、近衛野砲大隊に配属される。士官生徒第3期(旧3期と呼ばれるもの)の内山の同期には参謀総長上原勇作元帥陸軍大将や、教育総監の秋山好古大将・青島守備軍司令官本郷房太郎大将・台湾軍司令官柴五郎大将がいる。明治16年2月砲兵中尉に進み、近衛野砲連隊付に移る。明治19年1月陸軍大学校に入校する。同年6月砲兵大尉に進級し、明治21年11月陸軍大学校第4期を主席の成績で卒業し、砲兵第1連隊中隊長を命ぜられる。明治22年12月第6師団参謀に移り、明治24年9月には砲兵少佐・野砲兵第4連隊大隊長に進む。明治26年2月陸軍中将山地元治の下で第1師団参謀になり、翌年10月から日清戦争に出征する。同年12月砲兵中佐に進み、翌年2月27日第1師団参謀長心得を命ぜられる。5月に帰還し、12月12日からロシア公使館付を命ぜられる。明治30年10月11日に砲兵大佐に進級し、同12月10日フランス公使館付に移る。明治34年1月15日から野砲兵第15連隊長に就き、同6月26日陸軍少将に任官され野砲兵第1旅団長に進む。明治37年4月から日露戦争に出征する。明治38年1月14日から鴨緑江軍参謀長に就任し、明治39年1月30日帰還し、野砲兵第1旅団長に復す。翌月の2月8日からロシア公使館付となり、明治40年11月13日に陸軍中将・由良要塞司令官を命ぜられる。翌年12月21日東京湾要塞司令官に移り、明治42年1月14日から第15師団長を親補される。大正元年11月27日第12師団長に移り、大正2年8月22日から侍従武官長に就任する。大正4年8月10日、39人目の陸軍大将に親任される。大正10年11月に日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の歴戦の功により男爵の爵位を授けられ華族に列せられる。大正11年11月24日待命となり大正12年3月23日予備役編入となる。昭和4年4月退役。昭和20年2月14日薨去。
長男の英太郎は兄定吾の養嗣子となる。英太郎は陸軍中将に進み、第15方面軍司令官、第3・第12軍司令官を務める。次男雄二郎は士官候補生第26期で陸軍大尉、三男豪三郎は士官候補生第29期で陸軍大佐に進む。3人の娘は夫々海軍大将遠藤喜一・海軍大佐山路一行・陸軍大佐奥野一雄に嫁す。小二郎の兄定吾は陸軍砲兵少尉で、西南戦争後の処遇に不満を持った将校等が起こした竹橋騒動に参加し流刑に処せられている。
[編集] 栄典
- 功一級金鵄勲章
- 功二級金鵄勲章
- 功四級金鵄勲章
- 大正10年11月26日男爵
- 昭和20年2月14日勲一等旭日桐花大綬章