川尻哲郎
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川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日~)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。2005年限りで現役引退。現在はプロ野球解説者兼地震予知システムメーカー顧問。
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[編集] 来歴・人物
[編集] アマチュア時代
亜細亜大学時代は小池秀郎、高津臣吾の控えとして、東都大学通算4勝を挙げる。その後、日産自動車に入社。投球フォームをサイドスローに変えて頭角を現し、チームのストッパーとなる。1992年にはチームを都市対抗出場に導き、1993年にも前年に続いて都市対抗に出場。同年の社会人野球日本選手権では準優勝、敢闘賞を獲得する。1994年には3年連続となる都市対抗出場、社会人野球日本選手権では2年連続準優勝と大活躍、日本代表にも選出される。同年ドラフト4位で阪神に入団。
[編集] プロ入団後
1995年4月28日のヤクルト戦ではプロ初登板初勝利。1996年には自己最多となる13勝をマーク、9月には月間MVPを獲得する。以降は同い年の藪恵壹とともに1990年代後半・暗黒時代の阪神を支える存在となる。
しかし、1997年には開幕投手の栄誉に輝くも、同年野球界を震撼させたプロ野球脱税事件に小久保裕紀、波留敏夫らとともに関与していたことが明らかとなり、翌1998年に3週間の出場停止処分を受けることとなった。しかし、処分が解けた後は総崩れの投手陣を救う投球を見せ、5月26日の中日戦ではノーヒットノーランを達成、5月の月間MVPを獲得。オールスターにも出場し、2年ぶりの10勝を達成。さらに、同年オフの日米野球ではカート・シリングと投げ合い、9回一死で大塚晶文に交代するまで大リーグ選抜を0点に抑える投球を見せ、メジャーの選手たちを本気にさせた。2000年にも10勝を挙げ、またも日米野球で同僚の葛西稔、新庄剛志とともに大活躍を見せた。しかし、川尻の投球フォームは2段モーションであり2段モーションを全面禁止している大リーグとのルールと食い違いメジャーの選手からの疑問の声もあがった。
翌2001年は3月30日の巨人との開幕戦で3対12と大敗していたため、6番手として調整のためにマウンドに上がるも清水隆行に満塁本塁打を浴びて撃沈。結果的に巨人に1994年のダイエーに並ぶ開幕戦最多得点記録(17点)を献上することとなってしまった。その後も打たれ続け、1勝6敗、防御率は6.38とプロ入り最低の数字となってしまう。しかし、同年オフの契約更改の席でこれまでの実績を盾に年俸のアップを要求、認められない場合はポスティングシステムでのメジャー移籍を要求。球団、ファンの両方から大いに反発を買う。この騒動は星野仙一新監督の仲裁で収まるが、その後、星野監督時代の2年間は完全に冷遇され、二軍暮らしを余儀なくされた。2003年オフにはチームが優勝に沸く中で前川勝彦とトレードで近鉄に移籍。
しかし、翌2004年には球界再編問題で所属チーム消滅の危機を迎える。この時には自身の登板日にも拘らず、試合開始直前まで熱心に署名活動に参加したり、登板のない日には試合に出場する他の選手に「後は俺がやっておくから、安心して試合に行ってこい」と声をかけ、吉田秀彦ら交友関係のある友人に協力を求めるなど、移籍1年目とは思えないほど精力的に活動し、最後まで球団合併阻止に力を尽くした。
同年オフの分配ドラフトで楽天に移籍。しかし、僅か2試合の登板に終わり、2005年に戦力外通告を受け、現役を引退し、緊急地震速報システムメーカー(3Softジャパン)の顧問に転身し、2006年緊急地震速報装置の特約店(ユニゾン)を仙台で設立。阪神時代の1995年に阪神・淡路大震災を経験しており、「人の命を守りたい」と思ったからだと言う。これと並行して、ミヤギテレビ、インターネット放送・楽天イーグルスTVの野球解説者も務め、更にイーグルスが主催する野球教室のコーチも務めている。なお、阪神の大ファンでしられるABCラジオの名物アナウンサー道上洋三がおはようパーソナリティ道上洋三ですのなかで川尻はセールスマンをしていると発言したがこれは誤りである。
[編集] エピソード
- 阪神時代、開幕投手を打診されながら「開幕投手をしたって年俸が上がるわけじゃない」と発言したり、1997年の脱税事件関与、2001年のメジャー移籍騒動をはじめとする契約更改でのトラブルの多さから「お騒がせ男」のイメージが付いて回った。しかし、2004年の球界再編問題での活躍や、ファンへの対応などの評判はよく、常に悪いイメージが先行しがちだった川尻であるが、その素顔は好漢であった。
- 特に阪神時代は、なぜか1年おきにしか活躍をすることができず、「隔年投手」というありがたくないニックネームをファンから頂戴することになってしまう。通算の防御率や好調年の投球はまさにエースと呼ぶに相応しいものであったが、「阪神暗黒時代のエース」と呼ばれた藪とは違い、「エース」と呼ばれることがなかったのは、恐らく本人のイメージの悪さとともに、この「隔年病」が最大の原因であろう。だが、その投球術は江川卓にも絶賛され、打線の援護さえあれば通算の勝敗も逆か、もしくはそれ以上の成績を残していただろうと言われている。
- 入団当初は球速が140km/hを越えていたが、年々球速が落ちていく。しかし、変化球に磨きをかけ、魔球ジャイロボールを習得するなどし、(前述の通り1年おきではあったが)長く活躍を続けた。
- かつては皆川睦雄、小林繁、上田次朗ら多くのサイドスローの先発投手がいたが、現在はサイドスローの投手はリリーフでの起用が多くなっており、先発投手はほぼ皆無である。特に斎藤雅樹がケガのために登板数が減った1998年以降は唯一の先発サイドスローの生き残りと言われていた。
- 日米野球の好投により、メジャーリーグから誘いがあったが「まだメジャーにいくほどの実力ではない」と、断っている。
- 星野監督時代、優勝を決めた2003年9月15日には、ケガのため二軍調整中だった藪、濱中治らが「これまでの功労者」として一軍帯同・胴上げ参加を認められたにも関わらず、間違いなく暗黒時代の功労者だったであろう川尻はなぜか一軍の試合に呼ばれることなく、胴上げにも参加を許されることがなかった。佐藤義則投手コーチは就任早々に「腐ったみかんはいらない」と言ったが、これは明らかに川尻を意識した発言だった。メジャー移籍騒動は自業自得とは言え、長年活躍してきた阪神での晩年は寂しく、チームを去っていった。
[編集] 通算成績
- 227試合 60勝72敗3セーブ 1183回1/3 744奪三振 防御率3.65
[編集] タイトル
[編集] 現在の出演番組
[編集] 背番号
- 41(1995年~1997年)
- 19(1998年~2003年、2005年)
- 11(2004年)