千疋美徳
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千疋 美徳(せんびき よしのり、1964年1月5日 - )は、福岡県出身の元サッカー選手で、サッカー指導者。九州共立大学卒業。
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[編集] 経歴
選手時代は読売サッカークラブや浦和レッドダイヤモンズでDFとしてプレーし、引退後は福岡ブルックス(現在のアビスパ福岡)のジュニアユース監督や母校の九州共立大サッカー部の監督を務めた後、2003年にJ2・サガン鳥栖の監督に就任。
就任にあたっては「超攻撃サッカー」を標榜し、ジーコの長男ジュニオールなど、外国人を中心に積極的な補強を行った。しかし、ジュニオールを始め外国人のチーム合流の遅れ、格下相手との練習試合でも失点を許すなど、シーズン前から不安材料は多かった。シーズンに入ると不安視されていた守備が崩壊。攻撃面でも思うように点が取れず、開幕から勝てない状況が続いた。観客面の効果も期待されたジュニオールは全く戦力にならず、わずか2試合出場で戦力外となった(鳥栖スタジアムでのデビュー戦にはジーコも観戦に訪れたが、あまりに低調なパフォーマンスに頭を抱えていたという)。
その後、守備重視の戦術に転換してやや持ち直したが、5月26日に指揮権を失って事実上更迭された。ただし、新たに指揮を執るコーチのアンドレがJリーグ監督就任の条件(日本でのS級ライセンスに相当するもの)を満たしていなかったため、千疋は名目上は監督としてチームに残った(S級ライセンスを持つ人物を名目上の監督に置き、S級ライセンスを持たない人物が総監督の肩書きで指揮を執るというのは一部クラブで見られたが、コーチの肩書きで実際の指揮を執るのはJリーグでは初めてと思われる)。この時点での成績は2勝8敗4分けであった。
しかし、アンドレも1勝しただけで以後は全く勝てず、シーズン後半にはアンドレも指揮権を剥奪されて、GKコーチの浜口和義が指揮を執ったが(浜口もGKコーチの肩書のままであった)、最終盤では再び千疋が指揮を執るようになる。この頃になると親会社の経営問題がいよいよ表沙汰になり、Jリーグチェアマンの鈴木昌が「今のままではJリーグからの除名もやむをえない」と発言したほどだが、現場の方でも指揮権のたらい回し状態で、混乱が頂点を極めていたのである。
このような状態ではまともに戦えるはずもなく、結局チームは第17節から最終節まで28試合連続勝ち星無しのJ2ワースト記録を作ってしまう(その後2004年に30まで伸びた)。シーズン通して3勝しか出来なかったが、これもJ2ワーストである。天皇杯は初戦で九州社会人リーグの沖縄かりゆしFCに完封負けの失態を演じ、ここで千疋以下首脳陣は全員退団となった。
なお、千疋がサガン鳥栖で監督を務めた期間を「2003年シーズン開始~シーズン途中」としているのがよく見受けられるが、これは誤りである。指揮権は二転三転したが、監督はシーズン通して千疋であり、監督代行も置かれなかった。
2005年からは北九州市出身者唯一のS級ライセンス保有者として、故郷のニューウェーブ北九州監督に就任していたが、2006年シーズン終了までに、目標としていたJFLへの昇格を果たせず辞任。
[編集] 選手経歴
- 読売クラブ 1985-1990
- 日本鋼管 1990-1992
- 浦和レッドダイヤモンズ 1992
- NEC山形 1993-1994(※ヘッドコーチ兼任)
- 福岡ブルックス 1995
[編集] 指導者経歴
- NEC山形:ヘッドコーチ 1993-1994(※選手兼任)
- 福岡ブルックス:七隅ジュニアユース監督 1996-1997
- アビスパ福岡:ジュニア監督 1998
- アビスパ福岡:育成普及チーフコーチ 1999
- 九州共立大学:監督 2000-2002
- サガン鳥栖:監督 2003
- 堀越学園高校:ヘッドコーチ 2004
- ニューウェーブ北九州:監督 2005-2006
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | チーム名 | 順位 | チーム数 | 勝点 | 試合 | 90分勝 | PK勝 | 引分 | PK負 | 90分負 | 得点 | 失点 | 差 |
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2003年 | J2 | サガン鳥栖 | 12位 | 12 | 20 | 44 | 3 | - | 11 | - | 30 | 40 | 89 | -49 |
2005年 | Kyuリーグ | ニューウェーブ北九州 | 6位 | 10 | 33 | 18 | 10 | 0 | - | 3 | 5 | 51 | 30 | +21 |
2006年 | 3位 | 9 | 36 | 16 | 11 | 1 | - | 1 | 3 | 45 | 23 | +22 |
※2003年は実際の指揮をとらなかった期間もあるが、ここでは1年間の成績を掲載した。
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