サガン鳥栖
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サガン鳥栖 | |
原語表記 | サガン鳥栖 |
---|---|
愛称 | サガン |
クラブカラー | ブルー・ピンク |
創設年 | 1997年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン2 |
ホームタウン | 佐賀県鳥栖市 |
ホームスタジアム | 鳥栖スタジアム |
収容人数 | 24,490 |
代表者 | 井川幸広 |
監督 | 岸野靖之 |
サガン鳥栖(サガンとす、Sagan Tosu)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要
1999年Jリーグ加盟。ホームタウンは佐賀県鳥栖市。ホームスタジアムは鳥栖スタジアム。練習会場は鳥栖スタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場、鳥栖市北部グラウンド、鳥栖陸上競技場、吉野ヶ里歴史公園、小郡運動公園、日本精工グラウンド、など鳥栖市・佐賀市と、福岡県小郡市・うきは市のグラウンドを使用する。またかつては沖縄県総合運動公園陸上競技場を公式戦で使用したことがある(沖縄県初のJリーグ開催)。チーム名の「サガン」は、小さい砂粒が固まって砂岩になるように力を結集することを表す。また「佐賀の」にも通じる。また、イタリアのサッカークラブの強豪「ユヴェントス」の音に似せているという隠れた意味もある。ちなみにこのチーム名は、サガン鳥栖結成前に鳥栖市に存在したプロサッカーチーム、鳥栖フューチャーズ解散が決定的となった頃、急遽公募して決められたものである。
[編集] クラブの歴史
[編集] 「株式会社サガン鳥栖」時代(1997年~2004年)
1997年2月、経営難により解散した鳥栖フューチャーズの受け皿として新たにサガン鳥栖を設立。救済措置として引き続き、フューチャーズが所属していたJFLと、同年のJリーグヤマザキナビスコカップの2大会への参加が認められた。当初は任意団体として運営されたが、1999年のJリーグの2部制導入に伴い、1998年に「株式会社サガン鳥栖」として再法人化。J2に参加した。
フューチャーズがPJMの撤退によって一気に解散に追い込まれた反省から、サガンでは大口のスポンサーは設けず、小口の株主を多くすることによって経営を安定させようとした。しかし、株主が多くなったことで経営の主導権争いや、会社の経営方針に対する株主や関係者からの批判が相次ぎ、狙いとは逆に経営は苦しい状態が続いた。チームの成績も2000年に6位になったのが目立つ程度で、毎年下位に低迷し、特に2003年は「J2シーズン勝利数ワースト(3勝)」「連続無勝利試合記録(28。翌年に30まで伸びた)」などワースト記録を次々に更新し、ブービーの横浜FCの半分にも満たない勝ち点で最下位になってしまう。当時チェアマンの鈴木昌は「このままの経営が続けばJリーグからの除名や退会勧告もやむをえない」とまで述べている。このような状態のチームを引き受けようという監督をなかなか見つけられずにいたが、最終的にはJリーグからの紹介でかつて川崎フロンターレをJ1昇格に導いた松本育夫を招聘することに成功した。
2004年シーズン、松本は選手の約半分を入れ替えてシーズンに臨み、前半戦は記録的なペースで勝ち点を積み重ねていた松本の古巣である川崎Fに勝つなどほぼ五分の成績で健闘したが、後半戦は故障者が続出したこともあり22試合でわずか1勝に終わってしまう。一方経営問題は続いており、この年のシーズン中に「株式会社サガン鳥栖」の累積赤字が蓄積したことから、一旦100%減資という条件付きでJリーグの関連会社・Jリーグフォト株式会社が新しいメインスポンサーが見つかるまで暫定的に出資することを取り付けたが、Jリーグの定めた6月末の期限までに全株主169人のうち、10人からの同意を取り付けることができず、Jリーグフォトからの出資も白紙に戻された。
秋になって古賀照子社長が退任し、それに代る新しい経営陣を一旦決定したものの、新社長に就任する予定の井上良一が運営する湘南マリントレード社の経営体質について、Jリーグから疑問視する意見が上がり、このまま運営するようであれば除名(チーム解散、あるいはチームが存続したとしてもJFLなどの下位リーグへの強制降格)も辞さない可能性があった。また、ライブドアの堀江貴文社長(当時)もクラブ買収の意向を示していたが、実現しなかった。
しかし、関係者の尽力により2005年1月に人材派遣会社・クリーク・アンド・リバー社(社長・井川幸広=佐賀県出身)を中心に設立する新運営会社「サガン・ドリームス株式会社」に対し、経営権を2400万円(譲渡費用2100万円、2004年12月~2005年1月の運営費用など300万円)で譲渡することを発表した。旧法人は解散(清算)となり、ようやく経営問題は解決となる。なお、経営譲渡にあたって井川が出した条件は「チーム名はそのままサガン鳥栖で行く」「松本監督の続投」であったが条件通りとなり、松本はこの年も選手を半数入れ替えて「新生サガン」の1年目に挑むことになった。
[編集] 「サガンドリームス」時代(2005年~)
2005年はヘッドコーチに長年東京ヴェルディ1969を指導した岸野靖之、コーチに鹿島アントラーズの黄金時代を知る内藤就行を招聘するなど、J2ではトップクラスの首脳陣を整えてシーズンに臨んだ。 序盤は新加入の選手が多いことによる連携不足が目立ったものの尻上がりに調子を上げ、第15節終了時点では自動昇格圏内の2位にいた。 しかし、第16節のザスパ草津戦で不可解なPK判定によって負けたこと(家本政明参照)や、DFを中心に故障者が続出したことによる選手層の薄さから調子を崩し、結局最終的には8位で終えた。 この年、優勝した京都パープルサンガから3勝を上げるなど上位と互角の試合をする一方で、中位以下のチームに負けが目立ったことが惜しまれる。
シーズンオフには、選手層の薄さを解消するため、韓国代表の経験を持ちセレッソ大阪でも活躍したMFの尹晶煥をはじめとして韓国人選手を3人補強するなど、この年も積極的な補強を行った。 3年続けて大規模な選手の入れ替えを行った結果、ようやくJ2で戦える戦力が整った。 攻撃陣では新居辰基がJ2の日本人得点王になるなど選手に成長が見られ始めたことで、松本は「来年は上位5チームの中で争うところまでいきたい」と述べた。
2006年はポゼッションサッカーを導入し、「DFは体を張って守る」「攻撃はとにかく前線にボールを放り込む」という、良くも悪くもJ2の中位以下チームでは典型的なサッカーからの脱却を目指した。 シーズン序盤は新居でしか得点できない試合が続いて出遅れ、一時は最下位に転落するなどした。 しかし戦術が浸透してくると負けないサッカーを展開するようになる。 後半戦では特に守備が安定したことで(第3クール以降の失点20はリーグ最少)優勝した横浜FCと同じ14勝を挙げた。 チームはこの年,シーズン勝ち越しや4連勝するなど,クラブ史上初の記録を次々にマークした。 第48節には優勝争いから脱落したベガルタ仙台を抜いて4位に浮上し、この時点ではJ1・J2入れ替え戦どころか自動昇格・優勝の可能性もわずかに残っていたが、第49節の東京ヴェルディ1969戦に敗れてそれら3つの可能性は全て消滅した。 しかし、最後の3試合ではこの年の成長を裏付けるようなサッカーを展開して4位を確保し、J2での最高順位をマークした。 ちなみに、第47節の徳島ヴォルティス戦時点での勝ち点は70(43試合)で、これは前年3位でJ1昇格したヴァンフォーレ甲府の成績(44試合で勝点69)を上回る。
松本は2006年限りで勇退してゼネラルマネージャーに就任し、2007年からの後任の監督にはヘッドコーチを務めていた岸野が昇格した。 しかし、2年連続でJ2の日本人得点王となり、日本代表入りも囁かれるようになった新居がジェフ千葉に、期限付き移籍中だった濱田武が所属元のセレッソ大阪に復帰するなど主力選手を放出。 チームのレベルダウンが懸念されたが、新居の穴は前年水戸ホーリーホックで17得点を挙げたアンデルソンを獲得し、濱田の穴は岸野の教え子だった清水康也や石田博行を獲得できたことで埋まる見通しが立つなど、今オフも積極的な補強を行っている。
鳥栖に加入する選手は長らく「他のチームから採ってもらえなかった選手」が多い傾向があったが、近年は新居辰基や高橋義希等の若手の成長で育成面での評価も高まっており、また久光製薬所有でかつて久光製薬バレー部が使用していた寮を選手寮として借りる等、若手選手の住環境も良くなっていることで、若手有力選手も集まるようになってきた(2007年の新加入選手13人の内、7人が他のJクラブと獲得を争った。特に、赤星拓は大学No.1GKと評価され、J1クラブとの争奪戦を制して獲得した)。
2007年現在、J2初年度参加10チームのうちJ1未経験は鳥栖とモンテディオ山形の2チームのみである。
[編集] 佐賀県プロサッカー振興協議会
チームの経営が行き詰まり、チーム解散のムードが濃厚となった2004年9月、佐賀県と県内各市町村は、県内の企業・団体などと共同でサガン鳥栖の後援団体・「佐賀県プロサッカー推進協議会」を立ち上げた。この会では、サガンを県民参加型のクラブ運営にするため、ホームゲーム(鳥栖スタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場で開催)に各市町村の市民を招待するほか、サガンの選手を招いた少年サッカー教室や各種イベントを展開するというもの。また、2005年のシーズン開幕前には鳥栖スタジアムにこの会の事務所を移転させた。クラブ事務所との併設となり、チームとの連携をより強化することになった。
[編集] ホームゲーム招待事業
2005年以降、「サガン・ドリームス」がチケットを提供する形で、佐賀県プロサッカー振興協議会によるホームゲームへの佐賀県民の無料招待事業が始まった。この事業は好評で、それまでJ2でも最低レベルだった観客動員数は、2005年には前年比2倍以上の伸びを見せ、J1経験のないJ2チームの中ではトップクラスの観客動員を誇るまでになった。ただし、全入場者数の約半数は無料招待によるもので、有料入場者数を伸ばすことが今後の課題となる。社長の井川は2006年5月28日の株主総会で、Jリーグでは前例のない「有料入場者数の公表」を検討していると発表した。2006年9月現在、公式ホームページのトップに「前節の入場者内訳」と題して、「公式入場者数」「有料入場者数」「地域招待者数」「招待地域」及び「累計有料入場者数」を公開している。
ちなみに2006年シーズンの平均観客動員数はJ2で4位である。上位3チームは仙台、札幌、柏といずれもJ1経験チームでかつホームタウンが政令指定都市もしくは首都圏にあるチームであり、人口が6万人強の鳥栖市を本拠地としている鳥栖は健闘していると言える。しかし、J2ではトップクラスの座席数を誇る鳥栖スタジアムが本拠なだけに空席が目立つことは否めない。こうした状況の中、地元鳥栖市の小学生が「鳥栖スタジアムを満員にしよう」と活動を始め、スポンサーの1つであるブリヂストンも支援を表明。11月12日の湘南ベルマーレ戦を目標に活動を行い、湘南戦では鳥栖スタジアムでのJリーグ公式戦史上最多となる18,231人の観客を集めた。【参照】
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失差 | 順位 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | 旧JFL | 30 | 32 | 13 | - | 17 | - | - | - | 11位 | 楚輪博 |
1998年 | 30 | 39 | 14 | - | 16 | - | - | - | 8位 | ||
1999年 | J2 | 36 | 37 | 12 | 2 | 22 | 52 | 64 | -12 | 8位 | |
2000年 | 40 | 48 | 15 | 5 | 20 | 41 | 52 | -11 | 6位 | 高祖和弘 | |
2001年 | 44 | 32 | 10 | 4 | 30 | 45 | 82 | -37 | 10位 | ||
2002年 | 44 | 41 | 9 | 14 | 21 | 41 | 64 | -23 | 9位 | 副島博志 | |
2003年 | 44 | 20 | 3 | 11 | 30 | 40 | 89 | -49 | 12位 | 千疋美徳 | |
2004年 | 44 | 35 | 8 | 11 | 25 | 32 | 66 | -34 | 11位 | 松本育夫 | |
2005年 | 44 | 52 | 14 | 10 | 20 | 58 | 58 | ±0 | 8位 | ||
2006年 | 48 | 79 | 22 | 13 | 13 | 64 | 49 | +15 | 4位 | ||
2007年 | 5 | 4 | 1 | 1 | 3 | 2 | 8 | -6 | 11位 | 岸野靖之 |
2007年は途中経過
[編集] 獲得タイトル
- 2006年までに獲得タイトルなし
[編集] 2007メンバー
[編集] スタッフ
役職 | 名前 | 生年月日 | 前所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|
監督 | ![]() |
1958年6月13日 | 東京ヴェルディ1969 | |
コーチ | ![]() |
1967年11月9日 | サガン鳥栖U-18 | サテライト監督兼務 |
コーチ | ![]() |
1973年7月18日 | 藤代高校 | |
コーチ | ![]() |
1968年3月17日 | 清水エスパルス | 育成部統括兼務 |
GKコーチ | ![]() |
1974年4月2日 | 地球環境高校 | |
フィジカルコーチ | ![]() |
1980年8月12日 | 明治大学 | |
テクニカルコーチ | ![]() |
1978年6月13日 | 湘南ベルマーレ | |
トレーナー | ![]() |
1957年9月26日 | 名古屋グランパス | |
トレーナー | ![]() |
1979年1月25日 | ||
トレーナー | ![]() |
1981年1月9日 | ||
スカウト | ![]() |
1979年11月20日 | ||
通訳 | ![]() |
1972年4月19日 | ||
主務 | ![]() |
1978年1月29日 | ||
副務 | ![]() |
1980年4月20日 | ||
GM | ![]() |
1941年11月3日 | 地球環境高校 |
[編集] 選手
No. | Pos | 選手名 | 生年月日 | 前所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | GK | ![]() |
1983年4月4日 | 静岡産業大学 | |
2 | DF | ![]() |
1981年9月29日 | 福岡大学 | |
3 | DF | ![]() |
1981年5月13日 | 福岡大学 | |
4 | DF | ![]() |
1973年4月13日 | サンフレッチェ広島 | |
5 | DF | ![]() |
1980年4月10日 | 静岡FC | |
6 | MF | ![]() |
1976年7月29日 | アビスパ福岡 | |
7 | MF | ![]() |
1973年8月1日 | ザスパ草津 | |
8 | MF | ![]() |
1973年2月16日 | 全北現代モータース | |
9 | FW | ![]() |
1981年11月15日 | 水戸ホーリーホック | グレミオ・バルエリよりレンタル中 |
10 | MF | ![]() |
1980年7月19日 | セレッソ大阪 | |
11 | MF | ![]() |
1983年7月8日 | 国士舘大学 | |
12 | GK | ![]() |
1984年4月21日 | 福岡大学 | |
13 | DF | ![]() |
1983年4月24日 | ジェフ千葉 | ジェフ千葉よりレンタル中 |
14 | MF | ![]() |
1985年5月14日 | 松商学園高校 | キャプテン |
15 | DF | ![]() |
1982年9月28日 | 楠葉クラブ | |
16 | DF | ![]() |
1980年4月23日 | FC琉球 | |
17 | 永久欠番・サポーター | ||||
18 | MF | ![]() |
1984年3月13日 | 阪南大学 | |
19 | MF | ![]() |
1985年6月19日 | セレッソ大阪 | セレッソ大阪よりレンタル中 |
20 | DF | ![]() |
1984年9月10日 | 宮崎産業経営大学 | |
21 | GK | ![]() |
1988年4月10日 | 初芝橋本高校 | |
22 | MF | ![]() |
1979年8月31日 | ヴァンフォーレ甲府 | |
23 | MF | ![]() |
1983年10月17日 | 福岡大学 | |
24 | MF | ![]() |
1982年6月15日 | ベガルタ仙台 | |
25 | FW | ![]() |
1983年4月13日 | 立命館大学 | |
26 | MF | ![]() |
1986年4月18日 | ルーテル学院高校 | |
27 | FW | ![]() |
1987年7月10日 | 鹿児島実業高校 | |
28 | DF | ![]() |
1985年2月16日 | 三重中京大学 | |
29 | FW | ![]() |
1983年4月8日 | 明治大学 | |
30 | FW | ![]() |
1986年2月4日 | 東京ヴェルディ | 東京ヴェルディよりレンタル中 |
31 | GK | ![]() |
1986年4月28日 | 市立船橋高校 | |
32 | FW | ![]() |
1987年7月10日 | 渋谷幕張高校 | |
33 | GK | ![]() |
1987年10月13日 | 福岡大学在学中 | 特別指定選手 |
34 | MF | ![]() |
1988年4月11日 | ルーテル学院高校 | |
35 | MF | ![]() |
1988年9月15日 | ルーテル学院高校 | |
36 | FW | ![]() |
1988年12月22日 | アミーゴス鹿児島 | |
37 | DF | ![]() |
1983年6月16日 | 大分トリニータ | 大分トリニータよりレンタル中 |
[編集] 永久欠番
- #17 坂田道孝
2005年1月30日、Jリーグ初の永久欠番に制定。 佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長だった坂田は1994年、静岡県浜松市にあったPJMフューチャーズを佐賀県鳥栖市に誘致し、鳥栖フューチャーズを発足させた。 クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖フューチャーズ消滅後も、設立活動に尽力を注ぎ、チームを復活させた鳥栖最大の功労者。 チームの再興を見届け、1999年1月7日逝去(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で17番を永久欠番に制定)。
なお、他チームがサポーターナンバーを「12」としているのに対し、サガン鳥栖は「17」を同ナンバーとしている。これには、スタメン11人の選手と控え選手5人(計16名)の「次」として「共に戦う17番目の選手」という意味合いもある。(J1の場合は、2006年の規約改正で18人がベンチ入りとなっている)
[編集] チームカラー
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- チームカラーはサガンブルーとサガンピンク。
- ユニフォームのアクセントやチームエンブレムなどで使われているピンクは、PJM時代からのフューチャーズのチームカラー(ピンクと紺)の名残り。
- サガン鳥栖発足当時からユニフォームは紺系の青を基調としていたが、2006年シーズンからは紺系から水色(やや緑がかった水色)に変更された。この色は「サガンブルー」と名付けられ、佐賀平野の大地と澄んだ大空をイメージした色である。
[編集] ロゴ・エンブレム
2005年までのエンブレムは、佐賀県の地図をモチーフとしたものだった。
2006年は、「J1昇格への元年」と位置付け、チームのロゴとエンブレムを一新。新しいエンブレムはカチガラス(佐賀・筑後地方に生息するカササギ)を取り入れ、このカチガラスにはsagantosuの隠し文字で描かれている。また、ピンクとサガンブルーと更に5色(上から、青、黄、黒、緑、赤)のVが描かれており、この5色は五大陸を意味し、『True champions in the hearts of all who love Sagantosu.』(「サガン鳥栖を愛する全ての人と共に、真のチャンピオンになる」という意味)がエンブレムを引き締めている。新しいロゴは、今までよりシャープなイメージで強さを感じるデザインにし、ロゴの上下の飾りが「 V 」のイメージで、勝利にこだわっている。
[編集] ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 |
---|---|---|
胸 | 九州電力佐賀支店 | BBIQ ビビック |
背番号 | ブリヂストン | BRIDGESTONE |
パンツ | バランスセラピーUniv. | BTU |
袖 |
[編集] ユースユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 |
---|---|---|
胸 | ブリヂストン | BRIDGESTONE |
[編集] 過去のユニフォームスポンサー
- ディレクTV(1997年 背番号)
- 東洋新薬(2001年ごろ 袖)
- アサヒ緑健(2001年ごろ 背番号)
- プリンセス・テンコー(2004年 胸)
- 鳥栖市(2004年 背番号)
- 大江戸温泉物語「参勤交代の湯」(2004年 パンツ)
- エイチ・エス証券(2005年8月~2005年12月 パンツ)
- シー・アンド・アール(2005年10月~2005年12月 背番号)
- バリュー・リンク(2005年10月~2005年12月 袖)
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] マスコット
[編集] スタジアムDJ
- YUYA(フューチャーズ時代から担当している。)
[編集] 関連項目
- サガン鳥栖の選手一覧
- サガン鳥栖 夢超戦2006 〜J1への道〜(サガテレビで放送されている応援番組)
[編集] 外部リンク
公式サイト
ニュース記事
応援サイト
ファンサイト
- SAgAN*UNITED Blogあり
- サガンダイニング Blogあり
- SAgAN Report Blogあり
- SAgANTINO+Nord
- Futures on my mind.
- SAgANTINO CAFE
- サガン薬局
- それいけサガン鳥っ栖~ ただいま更新停止中
- Minority Spirit
ファンブログ
掲示板
その他
サガン鳥栖 - 2007 |
---|
1 浅井俊光 2 小井手翔太 3 加藤秀典 4 吉田恵 5 飯尾和也 6 村主博正 7 山口貴之 8 尹晶煥 9 アンデルソン 10 宮原裕司 11 蒲原達也 12 赤星拓 13 田中淳也 14 高橋義希 15 鐡戸裕史 16 髙地系治 17 サポーター 18 廣瀬浩二 19 山城純也 20 内間安路 21 太田弦貴 22 石田博行 23 衛藤裕 24 清水康也 25 藤田祥史 26 長谷川豊喜 27 栫大嗣 28 野崎陽介 29 日高拓磨 30 レオナルド 31 中林洋次 32 ジョズエ 33 河田晃兵 34 副島貴司 35 栗山裕貴 36 谷口堅三 37 柴小屋雄一 監督 岸野靖之 |
クラブ |
Jリーグ 2007 | |
---|---|
J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
|
J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
|
過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ |