史前時代 (台湾)
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台湾の史前時代は、オランダの東インド会社が台湾島南部に進出してくる1624年以前を指す。
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史前時代 |
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[編集] 概略
台湾は、東海(東シナ海)上にある島として古くから中国人にその存在を認識されており、隋時代の603年に書かれた文献には既に台湾への探検の記録が記載されている。もっとも、台湾に漢民族が大量に移民するようになるのは17世紀以降のことであり、それ以前はフィリピン、インドネシア方面からの移住したと見られる原住民が、十数とも二十とも言われる多数の部族に分かれ、異なる社会組織や文化を維持しながら各地に居住していた。
台湾の領有を確認できる史上初の中国の王朝は、モンゴル族が樹立した元朝である。ただし、13世紀後半に澎湖諸島を領有したのみで、領有範囲は台湾島にまで及んでいなかった。また、元朝崩壊後に漢族の明朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有範囲が及んでいなかった。その為に、公的にはどの国にも「領有」されていない台湾島は、島周辺の海域を通過する船舶の一時的な寄港地、あるいは海賊の根拠地として使用されるのみであった。
台湾が本格的に開発されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからである。倭寇(後期倭寇)の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、明末には林道乾や林鳳らの頭領が拠点とした。やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。また、この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。その為に、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
なお、ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされている。
また、その頃日本にも、台湾に対して領土的な興味を持つ勢力が幾つか存在した。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。 実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が、いずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した。