大航海時代
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大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中ころから17世紀中ころまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。かつては地理上の発見あるいは大発見時代と呼ばれていたが、ヨーロッパから見た主観的な概念となってしまうので呼び名が大航海時代へと変えられつつある。
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[編集] 中世までの東西交流
現代ヨーロッパ文明の源とされる古代ギリシャ文明が興ったとき、ヨーロッパ人が抱く世界とは、ギリシャ・地中海周辺、アケメネス朝ペルシャが支配するオリエントに過ぎなかった。その後、アレキサンダー大王の東方遠征によって、それはインドや中国にまで広がった。
さらに時代が下り、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、ローマの宿敵であったパルティアを挟撃しようと後漢に使節を派遣したと伝えられている[要出典]。しかし、こうした東西交流は限定的なもので、ヨーロッパ人が直接インドや中国の地を踏むことはほとんどなく、シルクロード沿いなどに勃興した国家や地域を介して物や文化が交流したに過ぎなかった。
4世紀後半からゲルマン民族が侵入しローマ帝国が衰退すると、ヨーロッパは長い混乱期に陥り、ついで8世紀イスラム勢力のイベリア半島侵入を赦(ゆる)し、狭い領域に押し込められた。この間、主体的に東西交流を推進する余力がヨーロッパにあるはずもなかった。
数世紀が経ち、カトリックを精神的支柱に据えて、現在の系譜に至るゲルマン民族諸国家が成立すると、商業も徐々に発展し、ヨーロッパに僅かばかりの余裕が芽生えた。11世紀後半、セルジューク朝トルコがパレスチナを征服したことを機に、ビザンツ帝国がローマ教皇ウルバヌス2世に援軍を要請した。教皇の要請に応えたヨーロッパ諸侯は、十字軍を結成してイスラムへの反攻を開始した。
十字軍の遠征は宗教的な目的のほかに、世俗的な現実も横たわっていた。かつて諸侯の祖先達が気ままに切り取ってきた土地は、人口増加と秩序が整ってきたことから、十分にヨーロッパに残されていなかった。また、当時のイスラム支配地には、収奪するに余りある富が集まってもいた。
一時、パレスチナ周辺を占領する戦果を上げたが、戦局は一進一退をくり返した後、十字軍の腐敗や内紛、戦費をまかなうための重税やペストの流行で領地が疲弊したこともあって、兵站の確保がままならずヨーロッパ勢力は駆逐された。
一方、十字軍の派遣は予期しない成果をヨーロッパにもたらした。十字軍の派遣によって東西交流が進み、ヨーロッパ商人とイスラム商人が盛んに交易するようになり商業が著しく発展したことである。ヨーロッパからは鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムからは大量の香辛料や絹などの交易品が安価にヨーロッパに流入するようになった。
[編集] 東西交流の発展
交易が盛んになると、まず、ヨーロッパとオリエントの中間に位置するビザンツ帝国やイタリアの商業都市が好景気を迎え、イタリアにルネッサンス運動が興って文化や科学技術が発展した。
その後、モンゴル帝国が、ヨーロッパの宿敵でもあったイスラーム諸国を征服すると、ローマ教皇やヨーロッパ諸侯は国情視察も兼ねて次々とモンゴル帝国に使節を派遣した。1245年、プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たし、モンゴルの国情を書籍に著わした。パックスモンゴリアのもとで、イタリア商人が東アジアに至るようになり、カラコルムや大都をはじめ中国内の諸都市に滞在する者さえ現れた。マルコ・ポーロは約20年にわたった旅行記を口述し『東方見聞録』として残した。
極東に至ったヨーロッパ人は、それぞれ誇張も含め、イスラームの国々やシルクロードの国々、そしてインドや中国の繁栄ぶりを語り、世界の大きさと豊かさを人々に伝えた。これを聞いた者は、ジパングやプレスター・ジョンに夢はせた。
15世紀に入るとモンゴル勢力が衰退し、新たに台頭したオスマン朝トルコが、1453年、ビザンツ帝国を滅ぼし、ヨーロッパと東洋の中間に君臨した。オスマン朝トルコは、官僚制度と精強な軍隊を整えて、この地域に強力な支配権を確立すると、東西交易を独占して交易品に高い関税をかけるようになった。その後、地中海にも勢力を伸ばしてイタリア商人に圧力を加えるようにもなる。
[編集] 海外進出の背景
従来に代わる交易ルートが必要とされるようになったヨーロッパではあったが、ルネッサンスの浸透によって科学技術が進歩し、地理学が発展し、羅針盤も伝来し、さらに外洋航海に耐えうる頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造され、海外進出への技術的ハードルはクリアされていた。
15世紀半、ポルトガル・スペイン両国は、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しレコンキスタを達成しつつあった。かってイスラムに支配されていた両国は、激しい敵愾心から民族主義が高揚し、他のヨーロッパ諸国に先駆けて王を中心とした中央集権制度が成立した。新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展。ポルトガル・スペイン両国は、こぞって海に乗り出していった。
初期の航海では、遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病の感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし、航路が開拓される度に新しい国土が加えられ、交易品による利益も莫大であることが証明された。健康と不屈の精神、そして才覚と幸運に恵まれれば、下層民や貧者であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの名声と富が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が、貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
さらに ローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は、相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、新たな信者獲得を必要としていた。強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に、使命感溢れる宣教師を帯同させ、両国が獲得した領土の住民に布教活動を進めさせた。
[編集] アフリカ・アジア大陸進出
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは、1415年、ジョアン1世のとき、イスラムを追って北アフリカへの進出を果たし、 命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタ攻略を開始した。その後、エンリケ王子が西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。
ポルトガルは1460年ごろまでに、カナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て、1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。
1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達し、1488年、バルトロメウ・ディアスがインドを目指してアフリカ南端の嵐の岬にたどり着くが、乗組員の反乱によって撤退を余儀なくされた。
続いてヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル王マヌエル1世に命じられてインドへ旅立った。目的はイスラム商人を排したインドとの直接交易。ガマは嵐の岬を越えてモザンビーク海峡でイスラム勢力と出会った後、1498年5月20日、インドのカリカットに到着しアフリカ周りのインド航路を開拓した。翌年ガマは香辛料をポルトガルに持ち帰り、その後ポルトガルはインドとの直接交易を順調に開始した。
さらにポルトガルはマレー半島・セイロン島に進出、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えた。
この進出はポルトガル独力によってなされたものではない。古くからイスラム商人はインドや中国さらにモルッカ諸島などとも盛んに交易し、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。また中国の鄭和艦隊の一部もアフリカ大陸に到達したと推定されている。
西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していたし、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャさらに中国などの綿製品・絨毯・陶器などが出土している。
このように、14世紀から15世紀までに、ほぼ旧世界の交易ルートは完成の域に達していたと考えられる。地球人として見るなら、ポルトガルがレコンキスタによって得たイスラムの航海術などをも大いに利用し、すでに開拓されていた航路にアフリカ周りの欧印航路を加えたとも言えるのである。
[編集] アメリカ大陸進出
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと、1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは、1486年、カスティーリャ女王イサベルとその夫フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)がコロンブスの計画を採用し、1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは、翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したことを宣言した。
だが、コロンブスの航海がスペインに目に現れる富をもたらすことはなかった。当時、アメリカ大陸は未開の地であり、金銀のほか交易に値するものはほとんどなかったのである。その能力に疑問を抱いたスペイン王は、植民地での反乱や原住民への虐待を理由に、コロンブスを牢獄に繋いだことさえあった。1501年、アメリゴ・ベスプッチが、バハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかするに至って、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ失意のどん底で死去することになる。
今日アメリカ合衆国の隆盛から、コロンブスによるアメリカ大陸発見はガマによるインド航路発見より有名で評価が高い。だが当時は莫大な実益が期待できるインド航路開拓の価値が断然高かった。アメリカ大陸には進んだ文明国がなく交易品も限られていたため、約1世紀の間、スペイン人はアステカ帝国やインカ帝国を征服し、原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くし金銀を強奪したのである。
アメリカ航路開拓に遅れをとったポルトガルも、1500年、 カブラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。
- ヨーロッパから喜望峰に至るには、風向きから大西洋を大きく西回りしてブラジル沿岸まで到達するのが効率的である。このことからポルトガルは1490年代までにブラジルを発見していたという説がある。アメリカ大陸の発見を公表しなかった理由は、スペインに先んじてインド航路開拓を達成したポルトガルが、スペインをはじめ競争相手に交易の実を奪われないように国家機密にしたとするものである。
[編集] 世界周航
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)は1519年セビリャから5隻の船で出発して、1520年南米南端のマゼラン海峡を通過して、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはその地で戦死したが、その部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。
スペインはこの後もメキシコから太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。
[編集] ポルトガル~スペイン間の条約締結とその後
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結して各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。その後、新興の英国やオランダが盛んに海外進出し次第に先行していた両国を凌駕していった。
こうして17世紀中ころまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えたのである。
[編集] 関連項目
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