北方諸島
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北方諸島(ほっぽうしょとう)とは、北海道の東、根室海峡(ロシア語地名、クナシルスキー海峡 Кунаширский пролив)とカムチャツカ半島の先端、占守海峡(ロシア語地名、ピエルビ(第一)クリルスキー海峡Первый Курильский пр)とのあいだにオホーツク海と太平洋とを仕切って列状につながり、現在ロシア連邦が実効支配している千島列島(ロシア語地名、クリル諸島 Курильские острова)ならびにその南部に並行する諸島のうち、地図に赤字で1855と記された線より南西側、択捉島(えとろふとう、イトゥルップ島Остров Итуруп)、国後島(くなしりとう、クナシル島Остров Кунашир)、色丹島(しこたんとう、シコタン島Остров Шикотан)、歯舞諸島(はぼまいしょとう、色丹島とあわせたロシア語地名はマラヤ・クリルスカヤ・グリャダМалая Курильская гряда)を総称した日本における呼称である。北方四島ともいう。
「北方領土」というと、日本国による領有権の主張と直接結びつく印象があるため、一般にも、また政府用語としても、より中立的なこの名称が用いられる場合が多い。本項目は、そのような観点に立って、特定の国の領有権の主張からは距離を置き、北方諸島という客体的対象の歴史ならびに現実を、できるだけ中立的かつ通時的に解説することを目的としている。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 地形
地形的には、千島火山帯によって形成され、火山性の1000m台の山を多く含む国後島、択捉島と、北海道の根室半島の先が沈降してでき、最高峰でも標高405mの色丹島、歯舞諸島の2つのグループに大きく分かたれる。両グループの間は、南クリリスク海峡(ロシア語地名、Южно-Курильский Пролив)によってわけられている。面積は、択捉島が3184.0平方キロメートル、国後島が1498.8平方キロメートル、色丹島が253.3平方キロメートル、歯舞諸島は5つの島と多くの岩礁から成っていて98.2平方キロメートルである。
[編集] 名称
島々の名称は、基本的に、先住民族であるアイヌ語によっている。択捉島は、エトウ・オロ・プ(岬・の所・のもの)、国後島はキナ・シリ(黒い・島)、色丹島はシ・コタン(本当の集落)の意味である。歯舞はアプ・オマ・イ(流氷・ある・ところ)が語源であるが、もともと島自体ではなく、根室半島のかつての村の名前であった。日本語地名はこれを漢字表記し、日本語風の発音に直して用いた。ロシア語地名も、歯舞諸島を除きこれを踏襲しているが、択捉島は、ロシア語地名のほうがアイヌ語の元の発音に近い。なお、「歯舞諸島」の島々を包括する名称はロシア語では一般に用いられず、色丹島とあわせて「小クリル列島」(マラヤ・クリスルカヤ・グリャダ)と包括的に呼ばれるのが一般的である。
[編集] 人口
戦前の日本統治下において行われた最後の国勢調査(1940年)では、択捉島に5,121人、国後島に8,996人、色丹島に1,499人が居住していた。ソ連統治下最後の調査(1989年)では、択捉島に10,950人、国後島に7,766人、色丹島に6,181人が居住していた。ロシア連邦統治下の現在(2006年)では、択捉島に6,739人、国後島に6,801人、色丹島に3,169人が居住している。日本統治時代は、島の沿岸部に多くの漁業集落があり、人口が分散していたが、ソ連が統治するようになってから、小さな村や集落の多くは廃村となり、人口が特定の中心地に集中する傾向が顕著である。また、ソ連時代に色丹島の人口が大幅に増加していたことが注目される。
[編集] 行政区画
現在は、北方諸島全域にロシア連邦の施政権が及んでおり、北方諸島全域がサハリン州に属している。州都は、豊原(ユジノサハリンスク)。択捉島はクリル管区(紗那(クリリスク)に行政府が所在)、国後島、色丹島、歯舞諸島は南クリル管区(古釜布(ユジノクリリスク)に行政府が所在)に所属している。
ただし、日本政府も、北方諸島には戦前の行政区画が戦後もそのまま存続しているという立場を取っている。すなわち、根室市(歯舞諸島を管轄)、色丹村、泊村、留夜別村、留別村、紗那村、蘂取村が存在しているとされ、自治体コードも付与されている。このため、自治体コードを使ってプログラムされているネット上のポータルサイトには、現実には機能していない北方諸島の自治体が現れる。
[編集] 経済と産業
北方諸島は、暖流の黒潮と寒流の親潮がぶつかり合う場所にあり、豊富な水産資源を擁するため、最大の産業は、戦前も現在も漁業である。とくに択捉島は重要な漁業基地であり、2005年には、キドロストロイ社をはじめとするロシア企業が合計で5億4860万ルーブル(約25億円)もの税引前収益を稼ぎ出した。紗那港は、この海域で操業する外国漁船の補給基地ともなっている。
漁業以外の産業としては、エネルギー、農業、運輸、建設、商業貿易、観光などがある。観光業については、ビザなし交流団を継続的に派遣してくる日本、エコツーリズム団体を送客してくる米国などが主な市場である。豊富な原初的自然に恵まれているところから、2006年策定の「クリル開発計画」が軌道に乗れば、観光業はさらに発展のポテンシャルを帯びるであろう。その場合、以下に述べる環境保護とのバランスが重要な課題となってくる。
2006年の平均賃金は、ギドロストロイ社の好調を受けて択捉島では23,283ルーブルと、サハリン州平均の約1万9千ルーブルを大きく上回っている。国後島・色丹島では15,137ルーブルであり、あまり振るわない。
北方諸島全体としてみると、択捉島に比べ、国後島と色丹島の経済立ち遅れがいぜん目立つ状況となっている。
[編集] 交通アクセス
現在、北方諸島への交通は、ロシアが実効支配している南樺太(サハリン)を起点とし、航空便、船便の双方が運行されている。航空便は、豊原(ユジノサハリンスク)空港からサハリン航空のソ連製プロペラ機によって国後島のメンデレーフ空港ならびに択捉島の天寧(ブレベストニク)空港まで週3~4便、船便は大泊(コルサコフ)港からサハリンクリル海運のポーランド製貨客船によって週2便の運行があり(流氷のある1、2月は減便)、北方諸島まで1泊2日のオホーツク海上のクルーズである。これらは、パスポート、ロシアのビザ、ならびに北方諸島の1つ以上の島に有効な通行許可証を所持する日本人を含む外国人も自由に利用できる。これらの公共交通手段を往復に利用した北方諸島向けツアーも、サハリン州のロシア人が経営する旅行会社により催行されている。
日本本土からは、ビザなし交流船が、不定期に北海道と北方諸島の間を結んでいる。ただし。この利用は、返還団体から推薦された者、旧島民などに限られ、一般の日本人が即座に誰でも自由に利用できる性質のものではない。
[編集] 地図表現
日本の学校の地理の授業で用いられる地図帳は、文部科学省の検定済教科書であり、教科書検定によって、北方諸島が現在すでに日本の実効支配下にあるかのように表現し、かつ日本語の地名のみを記載することが著者・出版社に対し強制されている。根室海峡(をはさんで異なる国により実効支配が行われている事実を示す境界線を入れること、北方諸島で現実に使われているロシア語地名を記入することは禁じられている一方で、現実には存在しない国境線を、択捉島と得撫島との間に入れることが要求される。このような、現地の地理について現実とは異なった認識を生徒に促す表記をしない限り、地図帳の検定は合格とならない。
海外で発行されている地図についてみると、北方諸島をロシア領と表現し、根室海峡のみに国境線をひき、ロシア語の地名を採用している地図が大多数である。Google Earthでも、北方諸島をふくむ千島・南樺太のすべてについて、所属国名をロシアとし、ロシア語地名を英語表記で入力しなければ写真を検索できない。とはいえ、地図上の北方諸島部分については、「ロシアが施政権を行使(administered by Russia)、日本が返還要求(claimed by Japan)」「係争中(disputed)」といった趣旨の記述を加えている地図も見られる。また、色丹島・歯舞諸島を中心とする北方諸島の区域について、一部日本語地名を採用している外国の地図もある。海外で発行されている旅行ガイドブック類も、ほぼこれに準じている。
[編集] 環境保護
日本統治時代には、国立公園などとして行政的な環境保護は行われず、住民は北方諸島全域に分散して居住し、漁業などに従事して環境に影響を与えていた。しかし、今日ほどにアウトドアスポーツは普及していなかったのでその影響は北方諸島に及んでおらず、国後島の名山、爺々岳(ロシア語地名、チャチャ火山Влк Тятя、1819m)、択捉島の名山、散布山(ロシア語地名、ボグダン・フメルニツキー火山Влк Богдан Хмелничкий、1585m)のいずれにも一般登山道はなかった。このため、余暇行動による環境への負荷はさほど高くなかった。
北方諸島がソ連の統治下に置かれてから集落は再編され、特定の場所への人口集積が進んだので、周辺は無人地帯になった。その地域の保護を目的として、ソ連政府により、1984年に国立クリリスキー自然保護区(自然保護委員会の機能も兼ねる)が設置された。 保護区の総面積は6万5千ヘクタール、その中に北方諸島七島が含まれる。保護区の事務所は、古釜布(ロシア語地名、ユジノクリリスク)にある。許可証を取得し職員が同行しなければ立ち入れないなど日本の環境保護行政以上の規制措置が取られており、環境保護を理由に、北方諸島の相当部分は事実上民間人の立入禁止区域とされているといってよい。
この厳しい規制に守られて国後島では野生の自然が原初のまま維持され、その生物は、根室海峡をはさんで知床半島と交流して知床半島の植物・動物相を維持することにも貢献している。生態系が共通であるため、環境保護を国際的な連携の中で行うことは急務であり、日本国内にも、北方諸島の対岸にあってすでに世界遺産に登録された知床半島とともに、日露両国が共同でこの地域の世界遺産登録を申請するか、「国際平和自然公園」のようなものを作るべきであるとの意見がある。北方諸島の歴史を踏まえれば、この地域に先住していたアイヌ民族が国際自然公園運営に積極的役割を果たすことが期待されよう。
[編集] 歴 史
[編集] 古代からのアイヌ人の生活空間に、日本とロシアが侵略
古代から長い間、北方諸島はアイヌ人の生活空間であった。アイヌ人は、樺太島から北海道を経由して北方諸島に渡り、採集経済を営んでいた。日本人は、北海道と同じく、アイヌ人からラッコなどの海産物などを購入し、漆器などの日本製品と引き換えていた。ロシア人も同様な交易を行っていたが、アイヌ人が圧倒的に不利な不等価交換であった。
- 1643年 オランダの探検家ド=フリースが、得撫島と択捉島を発見した。これは、択捉海峡のロシア語地名フリーズ海峡Пролив Фризаに名を残している。
- 1644年 松前藩が幕府に北海道とその周辺の地図を献上。北海道島の東方には「くるみせ」(ロシア語や英語の列島名「クリル」の語源)諸島が描かれ、「くなしり」、「えとろほ」、「うるふ」など、現在の島名とほぼ同じ名前がつけられた島もある。樺太島も描かれている。
- 1669年 北海道のアイヌ人酋長シャクシャインが和人の侵略に抗して蜂起を主導、松前藩側と和解の酒宴で松前藩はシャクシャインを毒殺。和人によるアイヌの生活空間奪取を決定的にした。
- 1711年から、1713年 ロシア人が、北千島の占守島、幌筵島、温祢古丹島に現れ、北からアイヌの生活空間に侵入をはじめる。
- 1754年 松前藩のアイヌ人生活空間への侵略は東方にすすみ、国後島に番所を開設。管轄の範囲は、択捉島、得撫島までを含むとされた。
- 1766年 ロシア人チョールヌイが択捉島に現れ、アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立て、得撫島にはアイヌ人女性の遊郭を作った。
- 1786年 最上徳内が択捉島に上陸した。このとき、択捉島には、ロシア人が居住しており、択捉島のアイヌ人の中にロシア正教の信者がいた。
- 1789年 国後島では、松前藩から経営を請け負っていた和人商人飛騨屋がアイヌ人を差別的に酷使し、反抗したアイヌ人に暴行を繰り返していた。これに反発したアイヌ人が、和人に対し反乱を起こす。だが、松前藩は大軍を送り込んで鎮圧。
- 1798年 近藤重蔵、択捉島に渡り、ロシア人の立てた十字架を引き倒して「大日本恵登呂府」の標柱を設置。幕府は、択捉島のアイヌ人に、キリスト教信仰とロシア人との交易を禁止する。
- 1801年 幕府、北方諸島におけるロシアとの対抗を意識し始め、得撫島に「天長地久大日本属島」の標柱を設置。当時日本は、得撫島までを北方諸島と認識していたことになる。
[編集] ロシアと日本とのフロンティアが国境として確定
- 1855年 日本(江戸幕府)とロシア帝国は、長年居住していたアイヌ人の意向を無視し、日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線として、アイヌ人の生活空間を分断した。 樺太は雑居地とされた。松前藩のフロンティアが得撫島まで及んでいたところからすれば、下田条約自体が不平等条約だったといえる。
- 1869年 蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島が「千島国」となった。
- 1875年 日本とロシアはサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)を結び、「(ロシアの)現今所領「クリル」群島(le groupe des îles dites Kouriles qu'elle possède actuellement)」(…以下、占守島より得撫島までの島名がカタカナで列挙されている)を日本領、それと交換に、日本とロシアの雑居地とされていた樺太をロシア領とした。この条約の日本語版に決定的誤訳があるわけではないが、ここで得撫島以北を「クリル」と呼んでいるところから、サンフランシスコ平和条約における「クリル」とは得撫島以北をさし、以南の北方諸島は放棄していないという牽強付会な解釈がのちに生まれた。この条約により、アイヌ人の生活空間はさらに分断された。
- 1876年 占守島から得撫島までが「千島国」に編入された。
- 1884年 日本は、北千島のアイヌ人を色丹島に強制移住させた。新しい生活環境になじめず、病気にかかったり死亡したりするアイヌ人が多数出た。
- 1885年 色丹島を「根室国」から「千島国」に移管。
- 1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により樺太島南部が日本領に復帰した。
- 1918年-1922年 シベリア出兵。1917年に成立した共産政権に対する干渉を各国が行ったが、他国が撤退した後も、日本は長く北樺太にとどまり、北樺太の主権獲得を狙った。だが資源権益を獲得しただけで、領土主権獲得は失敗に終わった。
- 1932年 日本の傀儡政権である満州国建国。これにより、清朝の領土であったがロシアの覇権下におかれていたハルビン周辺をも、日本の覇権下にとりこむことに成功した。日本は、満州国の重工業化と、そこに配備された関東軍の軍備増強を急速に進め、ソ連への防衛線を強化した。
[編集] 第2次大戦に翻弄された地政学上の要地
- 1939年 ヒットラーとスターリンの間で、独ソ不可侵条約締結。ヒットラーの地政学的意図は、スターリンのソ連と極東の日本(ならびに日本の覇権下におかれた中国)を同盟国として自陣営にとりこんで、ユーラシア大陸に、反アングロサクソンの拠点を作ることにあった。
- 1940年 ソ連、この不可侵条約に基づき、バルト三国、ポーランド東部(ガリツィア地方)などに侵攻し、ヒットラーとの約束で得た地域をソ連領に取り込む。しかし、ヒットラーが期待したような、枢軸国の一員にはならなかった。
- 1941年
- 4月、独ソ不可侵条約にならって、日本は日ソ中立条約締結。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。ソ連は、米英主導の連合軍についた。日本政府は、独ソ戦が枢軸国に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は満州で関東軍特殊演習(関特演)を実施、ソ連に侵攻する準備を整えていた。
- 12月 択捉島の単冠湾(ロシア語地名、カサトカ湾 Зал. Касатка)から出撃した日本軍が、米領ハワイの真珠湾を攻撃。
- 1943年
- 1月、ドイツが主導する枢軸軍はスターリングラードで大敗。独ソ戦の戦局は、ソ連軍に有利に展開しはじめた。
- 10月、連合軍が大戦に勝利する見通しが立ったころ、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる。この席上、米国はソ連に対し対日参戦を求めた。米国は自国民の戦争犠牲を少なくすることを狙っており、ソ連の対日参戦が必要だった。
- 11月、カイロで米・英・中三国による首脳会談。米・英・中三大同盟国は日本の侵略を制止し罰する為に戦争しているとして、敗色濃くなった日本の無条件降伏を求めるコミュニケが出された(カイロ宣言)。第一次世界大戦以後の日本が諸外国より奪取した領土を奪還すると書かれていたが、南樺太や千島列島については触れられていない。 なお、この宣言には各国代表による署名が行われていないため、法的効果を持たない。
- 11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談(テヘラン会談)。この時も米国のローズベルト大統領がドイツ降伏後の対日参戦を求めた。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、スターリンは、自国の覇権拡大の絶好の好機と米国の参戦要求を了承した。
- 1945年
- 2月,ソ連(現ウクライナ)のヤルタで米・英・ソが会談(ヤルタ会談)。ここで、いずれ敗戦することが明らかな日本とドイツに関する戦勝権益の分割が話し合われた。米ローズベルト大統領は、むすばれたヤルタ秘密協定のなかで、日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の90日後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本降伏後、南樺太と千島列島をソ連の支配下に置くことを認めた。
- 春から夏、日本は、ヤルタ会談ならびにそこでなされた決定の存在を知らないまま、日ソ中立条約の形式的な有効性を信じ込んで連合国との講和仲介をスターリンのソ連に依頼することを試み、この際、講和条件として、日本はソ連に、南樺太と中千島・北千島の譲渡を提案しようとした。しかし、ソ連高官に面会する機会は得られなかった。
- 7月 米国、ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠で、人類史上初の原爆実験に成功。これを用いれば、米国単独でも日本を敗戦に追い込めることになり、米国はソ連の参戦を必ずしも必要としなくなった。他方ソ連は、原爆実験成功の報に接し、日本ならびに満州への侵攻を早める指示を出した。
- このころから、米国は次第に、千島列島が持つ地政学的価値に気づき、ヤルタでローズベルトが行った譲歩に後悔しはじめていた。すなわち、千島列島はソ連が太平洋に出ることを阻止し、また米軍がオホーツク海に自由に出入りするため不可欠である。また、日米間の大圏航空路上に位置するため、日本占領後の米軍機給油基地として有用である。
- 7月24日と7月26日 ポツダムにおいて、対日戦準備の米ソ作戦会議。千島列島については、ソ連の作戦地域を占守島、幌筵島、阿頼度島の北千島3島とし、温祢古丹海峡(チェトベルティ・クリルスキー海峡Четвертый Курильский Пролив)以南は、米国の作戦区域とすることで合意。
- 8月8日 ヤルタ協定どおり、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。翌日、ソ満国境を越えて満州に侵攻、占領下においた。
- 9日、ソ連第二極東軍部隊は、北緯50度線の国境をこえて、陸上から南樺太に侵攻。
- 14日、日本、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定。日本国の主権は「本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島」に局限されること、すなわち戦後の日本国の領域として「吾等」(=連合国側)が一方的に決定したものを日本は無条件で受け入れることに日本政府は同意した。
- 15日 米大統領トルーマン、日本の領域分割を事実上決める「一般命令第一号」の原案をスターリンに送る。満州、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊はソ連極東軍最高司令官に降伏すべきこととしたが、千島列島の日本軍についてはどこに降伏するのか言及されていなかった。7月24、26日のポツダムにおける作戦会議での合意が念頭にあったとも考えられる。
- 16日、「一般命令第一号」原案に、千島列島の日本軍がどこに降伏するのか明記されていないことにスターリンは気づき、ヤルタ協定をたてに、すべてソ連軍に対し降伏させるよう米国に要求。
- 17日 米国トルーマン大統領、スターリンに対して千島列島全域をソ連軍に対し降伏させることをやむなく了承。ただし、同時にスターリンが新たに要求してきた北海道東北部(留萌と釧路を結ぶ線より東北側。これにより旭川はじめ道北・道東の主要都市はほとんどソ連占領地域となる)の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国はソ連に対し、中千島(新知島か)に米軍基地を設置させるよう要求するも、スターリンに拒否された。
- 18日 トルーマンからの千島列島全域占領了承電報をスターリンが受け取る。ソ連軍が北千島の占守島にカムチャツカ半島から強襲上陸。日本軍の猛攻により、ソ連兵に1,567名もの戦死者を出した。
- 20日 ソ連軍、南樺太の日本海側で最も重要な都市、真岡(ホルムスク)を海上から攻撃。当時真岡郵便局にいた電話交換手9名が、青酸カリを服毒し自決。同様の自決が、恵須取(ウグレゴルスク)で、看護婦らの劇薬注射により発生。以降、鉄道の連絡がなかった恵須取の市民は、徒歩で最寄の鉄道駅まで約80kmの山道をたどって逃避行を試み、その途次、乳幼児や老人の遺棄、ソ連機の機銃掃射による民間人死亡など、多大の犠牲が発生した。
- 22日 南樺太の知取(マカロフ)にて、日ソ停戦協定締結。その後、さらにソ連機は、豊原(ユジノサハリンスク)駅前に集まっていた避難民めがけ空爆を加え、100人あまりの市民が犠牲となり、市街地が破壊された。
- 26日 連合国から再度の確認を得たので、樺太占領軍の一部は、樺太・大泊(コルサコフ)港を出航、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領。歯舞群島の大部分は、9月3日から5日にかけて占領。
- 9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書に調印した。千島列島の日本軍はソ連に降伏すべきであるという文言が付け加えられた「一般命令第一号」が正式に発出された。
[編集] 北方諸島がソ連の実効支配下におかれ、返還交渉始まる
- 1946年
- 1月29日、GHQ SCAPIN第677号発出。これにより日本政府は、竹島・琉球・千島列島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。
- 2月2日、ソ連最高会議は、南樺太・千島列島全域を自国領に編入。 このころから、ソ連の欧州部などより、多くのソ連人が北方諸島に入植をはじめた。
- 11月 日本は米国に対し講和条約にかかわり日本の立場を説明する36冊の資料を提出したが、そのうち、この月に提出された「千島、歯舞、色丹」に関して説明した資料では、国後島と択捉島をはっきり「Southern Kuriles」と呼んでいる。後に日本政府が変えた条約解釈と矛盾する説明である。
- 1949年 この夏ころまでに、北方諸島に住んでいた日本人が、樺太経由で帰国したが、途次に死亡した者もいた。アイヌ人も、北方諸島から退去した。これにより、北方諸島の民族構成が総入れ替えされ、大多数が白人のソ連人のみとなった。
- 1950年 3月8日の衆議院外務委員会にて島津政務局長、国後島、択捉島は千島に含まれるという趣旨の答弁を行う。
- 1951年
- 3月20日、米上院は、南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞諸島及びその他の領土、権利、権益について、これらをソ連に引き渡すことを日本国との講和条約は含んでいない、とする決議を行った。これを受けて米ダレス国務長官は、米議会で日本に南樺太と千島を放棄させることを取り決めた条約を通すため、連合国の条件として「当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したこと」を付け加え、「この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益(注、具体的には、南樺太と千島列島を指す)も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国(注、具体的にはソ連を指す)のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。」と規定した第25条を付け加えた。
- 9月 サンフランシスコ講和条約締結。日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、連合国に対し南樺太・千島列島の領有権を放棄。ただし、同条約25条のため、「定義された連合国の一国」に該当しないソ連による南樺太・千島領有の法的な正統性は失われた。
- 10月 外務省の西村条約局長、サンフランシスコ講和条約を批准する審議をしていた衆議院で、放棄した千島列島に国後島・択捉島は含まれるが、色丹島・歯舞諸島は北海道の一部であるから含まれない、と答弁。
- 1955年
- 6月、松本俊一を全権代表とし、ロンドンで日ソ平和条約交渉が始まる。当初、日本が南樺太と全千島の返還を要求したのに対し、ソ連は、日本が連合国に対し放棄した諸島の帰属について交渉する当事者能力を日本に認めたものの、現実には一島も渡さないと主張。
- 8月、ソ連は、歯舞諸島ならびに色丹島を日本に引き渡すと譲歩。欧州では寸土も敗戦国に渡さなかったソ連だが、日本には好意的姿勢を示し、ソ連の側に引き寄せようと「太陽政策」をとった。ところが日本側は、突如、国後島、択捉島をも日本に引き渡すことを主張しはじめ、交渉は行き詰まった。
- 1956年
- 2月 日本は一方的に、放棄した「クリル諸島」には北方諸島は含まない、と条文解釈を変更。だが、この変更について、サンフランシスコ講和条約署名国の国際的な承認は存在しない。 また、講和条約締結前の日本自身の説明とも食い違う。
- 7月、モスクワで日ソ平和条約交渉再開。当初、日本側重光全権は4島返還を主張したが、ソ連は決して認めようとしなかった。
- 8月、日本側重光全権は歯舞・色丹二島返還での交渉妥結を決心し、本国へ打診。ところが、当時、保守合同直後の与党は全権の提案を拒否。
- 8月19日、重光全権はロンドンで米ダレス国務長官と会談。ダレスは、二島返還で妥結することを禁止、4島返還を主張しないならば、沖縄を(グアムと同じような)米国の属領とすると述べて日本を恫喝。その背景として考えられるのは、次の2点である: 1、冷戦体制が固まるなかで、米国は日本がソ連と妥協することを望まなかった。このため、「太陽政策」のソ連に受け入れがたい条件を提示させた。 2、国後と択捉を返還させられれば、ヤルタなどで米国がソ連に対し行った過度の譲歩を現実に是正でき、千島列島の一部を日米安保条約適用地域に組み込んで米国の覇権下における。この米国の指図に保守党内部で鳩山首相に反対する勢力の思惑が加わり、平和条約交渉はまたもや行き詰まった。
- 10月、鳩山首相は領土問題棚上げを決断、自らモスクワに渡りソ連との交渉に当たった。だが、訪問直前になって、自民党は歯舞諸島と色丹島を日本領と確約することを共同宣言締結の条件とするよう決議。鳩山はフルシチョフとの会談で、歯舞諸島と色丹島を平和条約締結後に日本に引き渡すことを明記することに成功、日ソ共同宣言で日ソ間の外交関係回復が実現した。
- 1957年 ソ連国境警備隊が貝殻島に侵攻し、歯舞諸島の完全占領が完了。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
[編集] 「北方諸島一括返還」要求の成果がみえない日本外交
- 1960年 岸信介内閣が日米安保改定を行い、日本が長期にわたり米国の覇権下におかれる事に対しソ連が反発。ソ連は、歯舞諸島と色丹島の引き渡しに、「全外国軍隊(具体的には、米軍)の日本からの撤退」という新たな条件を付け加えた。
- 1973年 当時の田中角栄首相は、日中国交回復、ブラジル日系人と連携した食糧自給政策など、精力的に米国から自立した外交実績を上げた。ソ連のブレジネフとも会談、日ソ共同声明を出し、日ソ間の諸問題を解決した後平和条約を締結することで合意。
- 1989年 ゴルバチョフ大統領のペレストロイカ政策により、ソ連国内の外国人立入禁止区域が原則撤廃され、従来外国人は入れなかった北方諸島にソ連のビザを取れば日本人も入域できるようになった。このとき日本政府は閣議了解を発出、ソ連のビザを用いて北方諸島に入域しないよう国民に協力を呼びかけた(ただし、法的強制力はない)。
- 1991年
- 4月 ソ連のゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。同時に、同大統領の提案により、ビザなし交流が、現地ソ連人島民と、日本人旧島民・返還運動関係者双方ではじまった。
- 12月 ソ連は解体、他の共和国がすべて独立した後に残ったロシア連邦が領土問題を引き継ぐ。
- 1997年 クラスノヤルスク合意において、「すべての分野について両国の関係を発展させる。その中に領土問題を含める」とし、両国の間に領土問題が存在することが明文化された。
- 2001年 日本は、豊原 (ユジノサハリンスク)にロシアへの公式外交使節として領事館を設置。しかしこの行為は、南樺太のロシア連邦による領有を公式に認めるものであり、サンフランシスコ講和条約第25条という北方諸島に対し主権を主張する場合に重要な法的根拠を自ら否定し去った。
- 2002年 ロシアと独自のパイプがあった鈴木宗男代議士失脚。これにより、日本政府の方向性が「2島先行返還+北方諸島に手厚い援助の太陽政策」から、「4島一括返還+北方諸島の窮乏化を図る北風政策」へと大きく転換、ロシア側との溝がかえって深まった。
- 2005年 11月21日、プーチン大統領と小泉純一郎首相の間で日露首脳会談。しかし、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨の発表に留まり、具体的な進展は何もなかった。
- 2006年 目標年次2015年の「クリル開発計画」をロシアが発表。北方諸島にロシアの手で大規模なインフラ整備を行い、確固とした経済基盤を構築して、ロシアが長期領有する意図を示す。ロシア側は、資源価格の高騰による経済成長を武器に、日本に対し強気の姿勢を貫いている。
[編集] 北方諸島の領有をめぐる各国・民族の立場
[編集] アイヌ民族
北海道、樺太、ならびに北方諸島を含む千島列島の先住民であったが、「排他的領域を持つ国家」というヨーロッパ的概念をもたなかったため、日本とロシアの不等価交換による交易にさらされたあげく、直接的な暴力を伴って日本人とロシア人に奴隷化され、最後にはその生活空間そのものを日露に分断されて奪われた。
この19世紀的に典型的な植民地化過程をふまえれば、北方諸島を本来の意味で「固有の領土」と主張できるのは、アイヌ民族のみである。現に、アイヌ民族のなかからは、日本政府が決めた北方領土の日に反対する運動が起こり、日本への返還ではなく、北方諸島をアイヌモシリとして独立させることこそ民族自決の大義だとする主張が出ている。
[編集] アメリカ合衆国
一般的に、米国の外交は、比較的短期の利害関係の判断によって左右されることが多く、短い期間に敵と味方がくるくる変わるのを特徴とする。日本が敵であったときはソ連と同盟してスターリンの要求を認めて、千島列島をはじめ北東アジアにあるかつての日本の権益を大々的にソ連に引き渡し、戦後の冷戦体制の中で共産主義勢力が強大化する種を自らまいた。ところが原爆開発に成功すると、考えを変えはじめた。千島列島へのソ連軍侵攻が日本のポツダム宣言受諾後にずれこんだのは、米国にも千島列島の一部を確保したいという思惑があって方針がぶれたからであり、連合国とりわけ米国側の事情である。
その後、ソ連と冷戦関係になると、かつてのソ連に対して行った過大な譲歩を是正しようとして米国は「北方諸島は常に日本の領土だった、日本に主権があることは正当」だと、日本の領有権を支持するポーズに切り替え、恫喝さえして北方諸島の返還を要求させた。米国は、これによってあわよくば北方諸島を日米安保条約下におき、オホーツク海への自由な出入り、日米間大圏航路上の給油基地建設などさまざまな地政学的利益を得ようとしている。日本は、こうした米国の行動に振り回され続けている。
北方諸島を日本が返還要求する立場から最も評価すべき米国の行動は、米上院が、南樺太と千島列島のソ連への引渡しに明示的に反対したことである。この決議は、今なお有効なサンフランシスコ講和条約第25条に盛り込まれている。厳密に言えば、日本を含む同条約調印国が、北方諸島を含む千島列島ならびに南樺太をソ連ないしロシアの正統的な領土と公式に認めることは、同条約に違反する行為である。
要求する「4島一括返還」がいつまでも実現しないため、日本人のロシアに対する不信感がかきたてられ、東アジアで日・中・韓・露などがより強く「東アジア共同体」のように結びつかない効果も生まれている。日本をいつまでも従属的な同盟の下においておくためには、いつまでも解決しない問題を永遠に懸案にしておくほうが有利という米国の判断もあろう。
[編集] ソ連、ロシア連邦
第2次大戦は、連合国と枢軸国の間で世界の再分割を争った第2の帝国主義戦争であった。スターリンのソ連は、この戦争を領土拡張に絶好の機会ととらえ、米英と組んで多大の自国民の犠牲を強いて大戦に勝利した。欧州方面ではフィンランド、ラトビア、エストニア、ルーマニア(モルドバ),ポーランド(ガリツィア)、チェコスロバキア(南カルパチア地方)、ドイツ(ケーニヒスベルク)などにも侵略し、戦勝権益として大幅な帝国主義的領土拡張を果たした。東アジアでは、満州を単独占領下におき(蒋介石軍は占領に加わっていない)、中国共産党の八路軍を訓練し、関東軍から捕獲した武器を八路軍に引き渡した。このことによって、後の人民解放軍は強大に膨れ上がり、華中、華南に進攻する力をつけ、1949年の中華人民共和国建国への決定的な手がかりをつかんだ。 連合軍の一員としてソ連がアジアで獲得した戦勝権益は、ヤルタ会談で米・英が合意を与えたものであり、「一般命令第一号」などによって米国はさらに追認もしている。
現在、ロシア側が北方諸島の日本への引渡しを認めない直接的な理由は、地政学的なものであろう。宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功している。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る重要なルートでもある。西能登呂岬(クリリオン岬)ならびに泊(ゴロブニノ)には、海峡を監視するロシア側の大きな基地が設置されている。国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉両島間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。これは、安全保障上の大きな損失である。このように、北方諸島の帰属は、米露間の関係をはらんでいるので、ブッシュ大統領のアフガニスタンならびにイラク侵攻以来米国に対する警戒感を急速に強めているロシアに、領土問題で日本に譲歩する雰囲気はますます無くなった。
北方諸島を含むサハリン州では、当然日本に対する関心が深い。北方諸島では、日本語を学習するロシア人もいる。だが、これは、現状の国境を承認することを前提として文化・経済交流を深めようとするものである。1991年から始まったビザなし交流は、現地州政府にとって、日本人訪問客を多く受け入れて北方諸島の観光業を振興させる一手段ととらえられており、北方諸島の日本への引渡しに結びつく政策とは認識されていない。
平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入し実効支配しているという絶対的な既成事実が60年以上にわたって続き、子孫が現地で生まれ育ち、まもなく日本が領有していた時期の半分に達する。北方諸島にある小中学校では、「国後、択捉等はロシア人が発見したロシア固有の領土」という教育がロシア人の子供たちに体系的に施されている。択捉島を本拠とし水産加工業を営むギドロストロイ社は好調で、色丹島など他の北方諸島にも経営を拡張してきている。「クリル開発計画」で国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。そして、かつてロシアやサハリン州民の間に多少はあった北方諸島返還を容認する声は、今では小さくなっている。 2007年2月28日、来日したサハリン州マラホフ知事は、もともと北方諸島はロシア固有の領土なのだから日本側の領土返還要求は日露交流になんら障害にならない、と語った。
[編集] 日本
ロシアと争いながら、アイヌ人の生活空間を、不等価交換の交易とアイヌ人奴隷化を通じて奪取し、19世紀的植民地主義の論理で領有した。その期間は、近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の標柱を設置してから数えても150年に満たない。香港島が155年間英国に領有された後中国に返還されたことを考えれば、「固有の領土」という根拠は、植民地化された世界の他の地域と比べて、とりわけ強いわけではない。
その点は問わないまま、北方諸島を日米安保条約下に置きたい米国の意向を代弁しつつ、日本政府は北方諸島の返還を要求し続けている。以前から日本側には、「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があった。鈴木宗男氏を失脚させて以後の日本の外務省の基本戦略は、この線に沿って、北方諸島への援助を打ち切り、困窮させて返還の世論を現地ロシア人の間に引き出そうとする「北風政策」である。だが、サハリン州では、石油・ガス開発や水産加工業が好調で、地域経済は成長し、ソ連崩壊直後のような状態はとうに脱している。しかも返還を求める論拠は、すでに樺太千島交換条約締結により無効となった下田条約や「北方諸島は『クリル列島』に含まない」という国際的承認が全くない条約解釈なのであるから、国際的な説得力が乏しい。日本政府は、ロシア連邦が北方諸島を「不法占拠」していると主張しているが、具体的にどの法律ないし条約のどの条文に違反しているのか、説明は無い。
地続きの欧州では、一度も他国の領土になったことのない土地が、敗戦の結果として切り離され、他国に編入されることはしばしばある。「固有の領土」ですら戦勝国によって利権として奪い取られることは、過去の歴史をひもとけば、常に戦争に敗れた国が受忍しなければならない制裁であった。例えば、ドイツは、哲学者カントを生み、7世紀の間「固有の領土」であったケーニヒスベルク(カリーニングラード)を失ったが、その返還要求は行っていない。[1]日本も、ポツダム宣言受諾の結果、日本の「固有の領土」に戻ることに合意したわけではなく、「本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ」主権が局限されることを受け入れたのである。「固有の領土」であれば返還されるという一縷の望みを日本国民に抱かせ続けることにより、日本が無謀な戦争をひき起こした挙句敗戦した国であるという過去の政府の誤りと歴史の屈辱を直視しない日本人のメンタリティーが作り上げられ再生産されている。
日本敗戦直前まで日ソ中立条約が存在したのは事実であるが、ソ連が連合国に入って日本の同盟国ドイツと激しく交戦している時点で、日ソは互いに潜在的な敵国となっていた。それゆえ、いずれこの条約は破棄されるというリスクをにらんで日本は慎重な外交を進めるべきであった。ところが日本は、日ソ中立条約にたよって講和仲介までソ連に依頼し、いたずらに降伏を引き伸ばした。日本がもっと早く降伏していたら、スターリンは対日参戦する機会を失し、南樺太も、北方諸島をはじめとする千島列島もすべて現在まで日本統治下にとどまっていた可能性は高かったのである。
[編集] 外部リンク
領土問題に関する外部リンクについては、北方領土の項目を参照。ここでは、それ以外の北方諸島に関する外部リンクを示します。
- 国際郵便条件表 185北方諸島 -- 「北方諸島」の名称が使われている例。公式に「国際郵便」扱いであり、郵便物はモスクワ経由で送達される。チューインガムは禁制品。
- アイヌモシリ年表 -- 北海道、北方諸島、樺太に住むアイヌ人の生活空間にかかわる歴史を詳しく年表にまとめた。
- クリルアイランドネットワーク -- 北方諸島の自然保護運動に取り組んでいるボランティア団体
- ギドロストロイ社公式ページ -- 北方諸島の地域経済を根本的に立て直した、ユダヤ系ロシア人の水産加工企業(ロシア語のみ。Google英語版の翻訳機能を使うと英語でも読めます)。
- インツーリストサハリン -- 北方諸島へのツアー催行や通行許可証取得手続代行など行う、豊原にあるロシア人経営旅行会社。
- 色丹島との草の根交流記
- 西牟田靖の北方領土紀行 -- ロシア連邦のビザありで国後島を訪問した日本人の記録。