鈴木宗男
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鈴木 宗男(すずき むねお、1948年(昭和23年)1月31日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。新党大地代表(初代)。
北海道開発庁長官(第68代)、沖縄開発庁長官(第36代)を歴任。
かつては、自民党の権力に近い中枢部におり、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視していた。現在は新党大地代表として、地方や弱者を軽視する新自由主義経済政策に傾倒する自民党を強く批判し、北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保等を訴え、地方分権を推進する民主党と提携している。道知事選では民主党の荒井さとしを支持し、後援会でも投票するよう訴えている。
生年月日 | 1948年(昭和23年)1月31日 |
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出生地 | 北海道足寄郡足寄町 |
出身校 | 拓殖大学政経学部卒業 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員秘書 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・ |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
比例北海道ブロック |
当選回数 | 7回 |
所属党派(現在) | 新党大地 |
党役職(現在) | 代表 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館224号室 |
ウェブサイト | 鈴木宗男 |
目次 |
[編集] 概略
十勝支庁出身で武部勤、中川昭一、北村直人の自民党四人がひしめいていた旧北海道5区選出の衆議院議員であった。
中川一郎の秘書を務め、立合演説会では中川の代理で登壇することもあったらしく、それほどまで中川一郎からは信頼を寄せられていたし、中川の支持者たちもそう見ていた。「中川の金庫番」とも言われていた。 その後1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から無所属で出馬し、中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選。直後自民党に追加公認された。
魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。
中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し、釧路市を基盤にした岡田利春(日本社会党)がいたため、日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であり、昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る武部勤の参戦(このとき武部は落選)もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が広大な選挙区(面積日本一。都道府県面積第2位の岩手県より広い)の中で繰り広げられた。
当選後は同期の衆院議員である野中広務元官房長官を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた。
1996年の小選挙区制導入で旧5区は道11区(十勝支庁)、12区(網走支庁・その後区域変更)、13区(釧路・根室支庁・現在は「7区」に区域名変更)に分けられ、11区には中川、12区には武部が張り付いた。13区は北村の地盤だったが、北村は当時の新党ブームに乗り、小沢一郎とともに新進党入りしていた。このため自民党候補者が不在となっていた道13区に、鈴木が地盤の十勝から国替えして張り付いた。
しかし中選挙区時代から小選挙区移行後の今日でも十勝支庁は地盤として強固である。国替え後、それまで縁の薄かった釧路市に家を構えたことに関し、嫌悪感を感じた釧路市民も多いと伝えられる。国替え直後選挙では、釧路市を大票田とする北海道13区(釧路支庁・根室支庁)では自民党を離れながらも酪農業を中心に保守層を押さえた北村に敗れ、重複立候補していた比例代表北海道ブロックで復活当選した。
選挙区の国替え後、基本的には十勝支庁の土建業者の支持を中心に受けつつ、補助的には自民党代議士が永く不在なため差別的なまでに基盤整備の遅れた道東の中心都市釧路市を含む釧根(釧路支庁・根室支庁)、特にこれまで独自の国会議員を持ったことがない根室支庁(妻の出身地)では、建設業界に支持が根強い。また、ライバルの北村直人が酪農家を地盤としたのに対し、鈴木は岡田利春の基盤であった漁業関連へと食い込み、「海関連」では固い人脈を築いている。中川昭一とは骨肉の争い以来現在でもライバル関係にある。同時に、2004年の参議院選挙では中川一郎の弟である中川義雄と戦い落選するなど中川家との関係は興味深い。同時に50万票という大量得票を得たことから、次期衆院選の比例での当選は確実である手応えも掴んだともいえる。また、中選挙区時代のもう一人のライバル武部勤に対しても批判を繰り返す犬猿の仲である。
2002年、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」、いわゆるムネオハウスの建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上し、3月11日の証人喚問では社民党の辻元清美議員(後に秘書給与流用で逮捕)に「疑惑の総合商社」と揶揄された。6月19日、証人喚問における追求事案とは別のやまりん事件であっせん収賄の容疑で逮捕される。6月21日、議員辞職勧告決議が可決。
2003年、衆議院選挙の直前に保釈された。出馬を推す声もあったが、胃ガンの手術を理由に断念。2004年の参議院選挙には無所属で出馬したが、落選した。
2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成。代表に就任。2005年9月11日、第44回衆議院議員総選挙に比例北海道ブロックより当選。当選後の特別国会では首班指名選挙では小泉純一郎に投票、再提出された郵政民営化法案には反対票を投じた。その当時再び胃ガンとなり、再び手術したと2006年9月19日の最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学で告白した。
2006年9月26日の首班指名選挙では松山千春と相談し地方重視を訴える民主党の小沢一郎に投票した。また10月22日には30分間小沢と会談し統一地方選や参議院議員選挙での協力を約束した。
[編集] 略歴
- 1948年(昭和23年)
- 1966年(昭和41年)
- 1970年(昭和45年)
- 1983年(昭和58年)
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自由民主党公認)当選1期目。
- 1986年(昭和61年)
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選2期目。
- 1990年(平成2年)
- 2月18日 第39回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選3期目。
- 1993年(平成5年)
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選4期目。
- 1996年(平成8年)
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(北海道13区・自民党公認)当選5期目当選。(比例復活当選)
- 1997年(平成9年)
- 9月11日 北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官(第2次橋本内閣改造内閣)。
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(北海道7区・自民党公認)当選6期目。
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 8月 保釈保証金5000万円を納付し、保釈。拘置日数は437日で、戦後の逮捕された国会議員で最長。
- 2004年(平成16年)
- 7月11日 第20回参議院議員通常選挙(北海道選挙区・無所属)落選。
- 11月 斡旋収賄罪など4つの罪で、懲役2年の実刑判決を東京地方裁判所に言い渡される。
- 2005年(平成17年)
[編集] 人物像
- シンガーソングライターの松山千春は同郷の後輩かつ足寄高校の後輩であり親友でもある。松山のコンサートに顔を出すことも多い。
- 新人議員の頃から血気盛んで、国会内でよく野次を飛ばしていた。一時期浜田幸一・松田九郎と共に「自民党の三大野次将軍」とも呼ばれていた。ちなみに鈴木は浜田・松田とは非常に仲が良かった。
- 2005年9月の選挙で当選して以降、逮捕前まで深い関係にあった外務省との対決姿勢を鮮明にした。国会では外務委員会で政府の対ロシア外交を失敗であると追及したり、外務省に矢継ぎ早に質問主意書を出して職員の不正を追及している。国会以外でもテレビ・雑誌などのメディアにも頻繁に登場し、外務省批判を繰り広げている。特に『週刊新潮』に5回にわたって連載された手記「『外務省の犯罪』を暴く!」では、現役の外務省キャリア職員のスキャンダルを実名で暴露して大きな波紋を呼んだ。
- 一方で鈴木の一連の外務省批判は、自分が外務省に利用された挙句に使い捨てされた私怨から来るものであるとして、その信憑性を疑問視する声もある。
- 北海道では未だに「宗男詣で」をしている建設業者が多い。また次に挙げるものでは口利きをしたとされている。
- 鈴木の地元利権型政治姿勢は地域に尽くしており、地方の経済を回すのには必要悪と評価する声もあるが、無駄な公共事業として疑問視する声もある。
[編集] エピソード
- 馬を売って大学の学費に充てた苦学生という話がある一方で、地元の素封家という話もある。
- 1994年、自民党と社会党が連立政権に合意した。その首班指名選挙直前、議運理事だった鈴木は、自民党代議士会で「むらやまとみいち」の『いち』は市場の『市』ですから間違わないで下さい」「村山達雄さんもおられるので、村山富市とフルネームで書いてください」と自民党議員たちに投票における注意点を説明していたが、鈴木自身は直後の本会議で村山の対抗馬として新生党など連立与党が擁立した海部俊樹に投票し、造反した。
- 「野中氏が白を黒と言えば、自分も黒」と公言したことがある。
- 官公署の一般職員などに威圧的な態度をとる事で知られていた。国際交流基金に電話をかけた際、電話口に出た高円宮憲仁親王(当時、嘱託職員として勤務)を受付係と勘違いして怒鳴りつけるという失態を犯した。
- 国会で証人喚問された際の、鈴木や辻元清美議員の発言をヒップホップ調に見立てた音楽(通称「ムネオハウス」)が、2002年頃、2ちゃんねるをはじめインターネット上で公開され話題となった。これはCD化され(もちろん市販はされていないが)、彼は「DJ MUNEO」と呼ばれ、アーティストのような扱いをされた。また、辻元含め彼と同じ時期に話題になった国会議員たちも、アーティストとしての別名を付けられていた。
- その後2004年5月に札幌で行われた「ムネオハウス」のクラブイベントに「MCムネオ」名義で出演した他、2006年2月23日に東京都渋谷区のクラブ「シムーン」で「100%ムネオナイト」なるイベントに招かれて(自分の主催ではない)、なんと自らラップに挑戦した。
- 2006年、めちゃ²イケてるッ!のどっきり番組にて鈴木宗男のそっくりさんとして坂田利夫を呼ぶはずが坂田利夫が他の仕事でキャンセルされてしまった為、坂田利夫の代役として鈴木宗男(本人)が呼ばれて出演することになった(ちなみに、鈴木がまださほど有名ではなかった2000年6月当時に、『週刊文春』が「現役官僚の落選させたい議員 No.1」と報じた時には鈴木を「アホの坂田似」と紹介していた)。
- 保釈後、再当選してからは、テレビのバラエティー番組などのゲストに呼ばれている。また、ライブドア前社長、堀江貴文が逮捕された際には、かつて経験した拘置所内の生活についてインタビューされ、「手帳も携帯電話も全て没収されました。堀江さんのように、情報を扱う仕事に就いていた人にとっては、情報がシャットアウトされることが一番辛いでしょうね。」「私は生まれが貧しかったので、あの頃に比べればここ(拘置所)はまだマシだと思って辛抱しました」などと、コメントしていた。
- 2006年5月3日に空き巣の被害に会い、警視庁赤坂署で調べたところ、1階応接室の窓ガラスが割られ、2、3階の部屋が物色されていた。夫人の愛用してる装飾品が数点盗まれた模様。その翌日に笑っていいとも!の「ちょい不良コンテスト」に出演しそこで見せた風貌や空き巣に入られた件のことで驚かせた。
- 東京マラソンでは抽選の結果、当選して一般ランナーとして出場し、59歳ながら見事4時間7分40秒で完走した。元気に回復した姿を他のガン患者たちに見てもらって勇気付けたい、という想いからである。完走の後、ランナー姿[1]のまま車で空港に直行し、その日の18時には北海道で行われた会合に参加した[2]。
[編集] 主な役職
- 沖縄開発庁長官
- 北海道開発庁長官
- 内閣官房副長官
- 自由民主党総務局長
- 新党大地代表
- 北勝海後援会長
- ガーナ共和国議員連盟会長
- ガボン共和国議員連盟会長
- カメルーン共和国議員連盟会長
- ギニア共和国議員連盟会長
- ケニア共和国議員連盟会長
- コンゴ民主共和国議員連盟会長
- ザンビア共和国議員連盟会長
- ジンバブエ共和国議員連盟会長
- 象牙海岸共和国議員連盟会長
- ナイジェリア連邦共和国議員連盟会長
- ブルキナファソ議員連盟会長
- ブルンディ共和国議員連盟会長
- ボツワナ共和国議員連盟会長
- モーリタニア・イスラム共和国議員連盟会長
- モザンビーク共和国議員連盟会長
- ルワンダ共和国議員連盟会長
[編集] 著書
- 『世界が変わる日本が変わる―これからの日本外交と国際貢献を考える』 (講談社、1992年)
- 『宗男の言い分』 (飛鳥新社、2002年) 〈インタビュー集 聞き手歳川隆雄・二木啓孝〉
- 『反乱』 (ぶんか社、2004年)
- 『100%ムネオマガジン―鈴木宗男、とことん丸裸』 (イーストプレス、2005年)
- 『闇権力の執行人』 (講談社、2005年)
- 『北方領土「特命交渉」』 (講談社、2006年)(佐藤優 共著)
[編集] 関連項目
- 野中広務(京都府出身)-宗男の国政での師匠。
- ジョン・ムウェテ・ムルアカ
- 浅田満
- 田中いづみ
- 松山千春-同郷の盟友。
- 佐藤優
- 東郷和彦
- 高畑利雄-元士別市議会員。元多寄夢創会初代会長。
- 北勝海-現・八角親方。後援会長を務めていた。
- 三井浩二-同郷の西武ライオンズ選手。後援会長を務めていた。
- 大泉洋-宗男のモノマネをしている。
- 杉原千畝-彼の復権に宗男が尽力した。
- 質問主意書
[編集] 外部リンク
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