堤義明
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堤 義明(つつみ よしあき、1934年5月29日 - )は、日本の実業家。西武鉄道グループの元オーナー。
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[編集] 来歴・人物
西武グループの基礎を一代で築き上げた堤康次郎と新潟県選出の石塚三郎元衆院議員の娘・恒子(未入籍)との間に生まれる。妻は由利。
弟は四男康弘(元豊島園社長・元西武建設取締役)・五男猶二(東京テアトル取締役、元プリンスホテル社長)。異母兄姉に、淑子(母は西沢コト、元西武鉄道社長小島正治郎夫人)・清(母は岩崎その、元近江鉄道社長)・西武百貨店など流通関係を取り仕切ったセゾングループの元オーナー堤清二(母は青山操、作家「辻井喬」でもある)・邦子(母は青山操、エッセイスト、元衆議院議員森田重郎夫人、離婚)がいる。
麻布中学・高校時代の同級生の倉本聰、2年後輩の福田康夫とは公私に渡り親密だった。
日本のスポーツ界への影響力はきわめて大きく、ゴルフやスキーを日本に広めた立役者の一人。現在でも西武グループは、スポーツリゾートの最大手企業であり、保有するゴルフ場の数は国内資本としては日本一を誇る。
日本オリンピック委員会(JOC)会長なども歴任した。長野オリンピック招致は、国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長(当時)とも親しかった義明の力に負うところが大きいと言われている。
2004年のプロ野球再編問題でも、中心的な役割を果たした一人となった。
アイスホッケーチーム(西武鉄道アイスホッケー部、コクドアイスホッケーチーム=後にコクドに一本化、2006年、西武グループ再編にともない、チーム名をSEIBUプリンスラビッツと改称)や、野球でもプロの西武ライオンズと、社会人のプリンスホテル硬式野球部(廃部)を運営した。
ホテル経営に関しては完全なるトップダウン方式で、ホテル内部の設計などにまで細かく指示を出した。グループの全てを把握していたのは義明一人だけだったと言われる。こうした企業体質には疑問の目が向けられることもあった。
ちなみに、義明の媒酌人を務めた福田赳夫は自由民主党第8代総裁を任期満了で退任した直後の1979年1月清和政策研究会を旗揚げして赤坂プリンスホテルに事務局を置き、更に西武ライオンズ初代名誉会長に就任し西武ライオンズ球場初のプロ野球公式戦で始球式を担当した。
[編集] 経歴
1934年5月29日、東京府に堤康次郎と石塚恒子の子として生まれる。麻布中学・麻布高校卒業後、早稲田大学商学部に入学。そこで早稲田大学観光学会というサークル(のちの総理小渕恵三が所属。小渕は、義明の後輩ということになる)を立ち上げる。なお、元西武鉄道社長(兼西武ライオンズオーナー代行)戸田博之・元プリンスホテル社長(兼西武ライオンズオーナー代行)山口弘毅(ひろよし)・元西武ライオンズ社長小野賢二も、同サークルの二年下の後輩であり、元コクド社長三上豊(みのる)は早稲田大学空手部に所属、義明が学生時代から手掛けていたリゾート事業地の警備の手伝いをしていた。
父康次郎に就いて経営の帝王学を学んできたが、大学在学中に康次郎から“冬の軽井沢に人を呼ぶ方法を考えろ”と言われ、観光学会の仲間とスケート場を開設、成功を収める(軽井沢スケートセンター1956年)。また、海の近くにプールを作るという奇策と揶揄された大磯ロングビーチ(1957年)も成功させる。これは、義明の卒論を実行に移したものである。1961年12月に苗場国際スキー場と苗場プリンスホテルを開業させる。
1964年、康次郎が死去。周囲ではグループは次男の清二が継ぐと噂されていたが、義明が西武鉄道グループを引き継いだ。なお、清二は、パルコなどの流通系事業を引き継ぐが、セゾングループも不動産業と考えたほうがいいのかもしれない。
グループオーナー就任後10年程は、ほぼ康次郎の事業をそのまま引き継ぎ、沈黙を保っていたとされる。
1980年代後半のバブル景気真っ只中、米国の経済誌『フォーブス』は「世界一の大富豪」(The World's Billionaires)として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円ともいわれた。1978年には西武ライオンズのオーナーとなり、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の初代会長などを務めるなどスポーツの振興にも熱心であった。この間、ライオンズは1980年代中期以降パシフィック・リーグの王者となり、何度もリーグ優勝・日本一を味わっている。
ヘリコプター(アメリカ大統領専用機と同じものとされる)に乗って移動している姿は、テレビなどでもよく放映された。
バブル崩壊後、西武グループの経営は以前に比べて厳しくなっていったが総帥の座を降りることはなかった。しかし2004年4月8日、西武鉄道が総会屋に利益供与をしていたことが発覚、経営の総責任者の座を降りた。但し辞職したのは西武鉄道の会長職のみで、西武ライオンズのオーナー、コクド(西武系の観光施設運営・不動産・建設会社、後にプリンスホテルと合併し消滅)会長には留まった。同年に起きたプロ野球再編問題では26年ぶりに出席したオーナー会議で「(大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ以外に)もう1つの合併が進行中」と発言し、渦中の人物となる。
2004年10月13日、有価証券報告書への虚偽記載の責任を取り、新高輪プリンスホテル「平安の間」で会見、コクドおよび西武鉄道をはじめとする、すべてのグループ会社の役員職から辞任する事を発表した。
2005年3月3日、証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載、インサイダー取引)の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、3月23日、東京地裁に起訴された。10月27日、一審の東京地裁にて懲役2年6月、罰金500万円、執行猶予4年(求刑懲役3年、罰金500万円)の判決を言い渡され、義明側・検察側とも控訴せず、判決どおり有罪が確定した。
[編集] 語録
- 頭のいい奴はいらない 物事の判断はすべて自分でおこなう
- どうせもう崩壊って言われてんだ。崩壊したら崩壊したでいい。また一から作り直せばいい(平成不況期に)
- (西武鉄道が)何で上場したのか分からない。そういうことも含めていろいろ甘かった(引退会見にて)
- (来年以後も)監督がやりたいならどうぞ(1989年10月、西武ライオンズ監督の森祇晶に対して。森は監督としてライオンズを1986年から1988年まで3年連続日本一に導いた。1989年は終盤まで優勝を争ったもののパ・リーグ3位で終わった)
[編集] 年譜
- 1934年
- 1957年
- 3月:早稲田大学商学部卒業
- 10月:国土計画興業(現:コクド))代表取締役(1965年社長、1995年会長)
- 1960年
- 5月:西武鉄道取締役
- 1964年
- 5月:伊豆箱根鉄道社長(~1970年5月)
- 1965年
- 11月:西武鉄道副社長
- 1973年
- 11月:同社長
- 1989年
- 1月:同会長
- 1976年
- 1989年
[編集] 堤義明氏の主な役職
- 日本オリンピック委員会(JOC)会長・名誉会長
- 国際オリンピック委員会(IOC)栄誉委員
- 日本体育協会理事
- 日本アイスホッケー連盟会長・名誉会長
- 全日本スキー連盟会長
- 日本経団連理事
- 日本ツーリズム産業団体連合会会長
- 日本観光協会理事
- 国立公園協会理事
- 三康文化研究所理事
[編集] 堤義明氏のスポーツ界での足跡
- 1973年:日本アイスホッケー連盟会長
- 1977年:日本体育協会理事
- 1978年:西武ライオンズオーナー
- 1983年:日本体育協会副会長(~1990年)
- 1986年:全日本スキー連盟会長(~2004年)
- 1989年:日本オリンピック委員会(JOC)初代会長(~1990年)
- 1990年:日本体育協会理事(~2004年)
- 1992年:アルベールビル冬季五輪日本選手団長
- 1997年:日本オリンピック委員会(JOC)名誉会長(~2004年)
- 2000年:国際オリンピック委員会(IOC)栄誉委員
- 2003年:日本アイスホッケー連盟名誉会長(~2004年)
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