大井上康
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大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8月21日 - 1952年(昭和27年)9月23日)は、農業学者、民間育種家。ブドウ「巨峰」の生みの親として、また今日では常識となっている栄養周期説の提唱者としても知られる。
[編集] 生涯
海軍軍人の子として広島県江田島の海軍兵学校官舎で生まれる。幼少時に病気を患い片足が不自由となったため農業学者を志した。東京農業大学卒業後、茨城県の酒造会社・神谷酒造所牛久葡萄園の技師となる。ここでブドウの交配育種の取り組みと作物栽培法の研究に没頭、また植物に容易に栄養素を与えず、必要な時期に必要な栄養素を最低限与える「栄養周期栽培法(大井上農法)」を提唱した。しかし、この理論は当時の学会では異端視されたため、大井上康は農学会を去り民間育種家・園芸家となる。1919年(大正8年)自らの農業理論実践のため、富士山を望む静岡県下大見村(中伊豆町)に『大井上理農学研究所』を設立。本格的にブドウの研究に打ち込んだ。洋書の関係文献を読破、またヨーロッパ各国で理論と実際を学ぶなどし20年を越える試行錯誤の末、1942年(昭和17年)岡山県産の「石原早生」と豪州産の「センテニアル」をかけ合わせ、かつてない大粒かつ糖度の高いブドウ交配に成功。1946年(昭和21年)この新品種を研究所から見える富士山にちなみ「巨峰」と命名した。
しかし世は戦中戦後の食料難の時代、主食の米などの栽培に重点がおかれ果樹栽培まで目が向けられる事はなく、さらに栽培の難しい「巨峰」はその後も苦難の道を歩んだ。大井上はその功績を評価されることなく戦後の1952年(昭和27年)に亡くなったが、その弟子達によって改良が加えられ、食料難を脱し果樹栽培が盛んになると日本各地の農家で「巨峰」の栽培も盛んとなった。現在日本で出荷されるブドウの約6割が「巨峰」といわれている。また「ピオーネ」、「藤稔」も「巨峰」から改良されたものである。
100年近くも前に大井上が提唱した「栄養周期説」は、今日、健全な植物育成のための基礎として知られている。
[編集] 書籍
- 葡萄の研究
- 家庭菜園の実際(1946年)
[編集] 参考ウェブサイト・外部リンク
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