大喪の礼
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大喪の礼(たいそうのれい)とは、皇室典範第25条の規定により国の儀式として行われる天皇の葬儀のこと。皇室の儀式として行われる大行天皇の葬送儀礼である「天皇大喪儀」と区別され、国の儀式として行われる葬儀を「大喪の礼」という。皇室行事は神道に則って行われる[1]為、昭和22年の憲法改正以後初となる昭和天皇の大喪の際には政教分離の原則への配慮から、皇室の儀式「天皇大喪儀」の一部である「斂葬の儀」の内の「葬場殿の儀」の後、葬場から鳥居等の宗教的要素を持つものを撤去して、引続いて国の儀式である「大喪の礼」が行われた。
- ^ 皇室の葬儀は神道式で執り行われるが、実は長らく仏式の葬儀に取って代られており、仏式は奈良時代聖武天皇の代から江戸時代まで続いていた。孝明天皇の大喪の際に神式が復古された。
[編集] 昭和天皇の大喪の礼
昭和天皇の大喪の礼は1989年2月24日に新宿御苑において行われた。葬列(車列)は自衛隊による21発の弔砲に送られて皇居正門を出発し、葬送曲「哀みの極み」の奏楽の中を桜田門、国会議事堂正門前、憲政記念館前、三宅坂、赤坂見附、青山一丁目、外苑前、青山三丁目を経て新宿御苑の葬場総門に到着したのち、皇室の儀式(葬場殿の儀)として霊柩が轜車(じしゃ:霊柩車)から葱華輦(天皇が用いる屋上に葱坊主形の吉祥飾りを着けた輿)に遷され、徒歩の葬列を組んで葬場殿に到着し、霊輦(霊柩がおさめられた葱華輦)が葬場殿に安置された。その後、皇室の儀式としての奠饌幣や天皇の拝礼と「御誄」の奏上、皇后を始めとする皇族や親族の拝礼が行われた。以上の皇室の儀式の後に鳥居等を葬場から撤去して国の儀式である「大喪の礼御式」の開式を小渕恵三内閣官房長官が告げた後、天皇と皇后が葬場殿前に進み正午から1分間の黙祷が行われ、竹下登内閣総理大臣をはじめとした三権の長が拝礼の上で弔辞を述べ、外国元首・弔問使節の拝礼、参列者の一斉拝礼の後、再び葬列を組んで四谷四丁目、新宿三丁目、新宿四丁目、首都高速道路初台ランプ、中央自動車道八王子インターチェンジを経て陵所(武蔵野陵)へ向かった。陵所では再び皇室の儀式として「陵所の儀」が行われ昭和天皇の霊柩が陵におさめられた。
大喪の礼の参列者は、国外からは英国のエジンバラ公、米国のブッシュ大統領、仏国のミッテラン大統領等、164か国・EC、27国際機関に及んだ。国内からは皇族、三権の長をはじめとした幹部公務員、都道府県知事等の地方代表者、各界の代表者等である。
日本では大喪の礼の当日が公休日となった(「昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律」(平成元年法律第4号)による)。またこの日は、全国のテレビ放送も終夜特別番組が編成され、テレビコマーシャルが自粛、公共広告機構のCMに差し替えられた。多くのテレビ局が崩御に関する内容を流したため、見飽きた視聴者が殺到し全国のレンタルビデオ屋が混雑した。昭和天皇の崩御以来の自粛ムードが発生した。
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