大宮県・品川県・小菅県
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大宮県(おおみやけん)、品川県(しながわけん)、小菅県(こすげけん)は、明治初期に設置された県。この項では、3県の前身である武蔵知県事(むさしちけんじ)、および大宮県の後身の浦和県(うらわけん)についても述べる。
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[編集] 武蔵知県事
1868年(慶応4年=明治元年)5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城を経て江戸周辺の支配権をほぼ掌握した明治新政府は、同年6月30日(旧暦5月11日)、新政府軍の軍政下に置いていた江戸市中の旧町奉行支配地域を管轄する「江戸府」を設置した(9月3日(旧暦7月17日)に「江戸」が「東京」に改称されるとともに、江戸府も「東京府」に改称された)。
一方、江戸(東京)近傍の農村は旧幕府代官の山田政則、松村長為、桑山效の3人にそれぞれ従来の支配地域を引き続き管轄させ、8月7日(旧暦6月19日)に山田と松村を、さらに8月27日(旧暦7月10日)には桑山をそれぞれ武蔵知県事に任じた。山田は武蔵国内の豊嶋・足立・埼玉3郡で約11.4万石、松村は荏原郡を中心に武蔵国内で約10万石、桑山は葛飾郡を中心に武蔵国および下総国内で約13万石の旧幕府直轄領(天領)等を管轄した。同年10月(旧暦)には、3知県事が管轄する荏原・豊島・葛飾各郡のうち東京市街に近接する町村が東京府に移管された。
これに前後して、同年8月(旧暦)、松村知県事が古賀定雄(一平)と、12月(旧暦)に桑山知県事が河瀬秀治と、翌1869年(明治2年)1月(旧暦)に山田知県事が宮原忠英とそれぞれ交代している。
新政府の支配が安定した1869年(明治2年)、3知県事の管轄区域は正式な「県」となり、大宮県、品川県、小菅県が設置された。
[編集] 小菅県
1869年(明治2年)2月15日(旧暦1月13日)、武蔵知県事河瀬秀治の管轄区域をもって小菅県が設置された。「小菅県」の呼称は、県庁が葛飾郡小菅村(現葛飾区)の旧幕府小菅御殿(元の関東郡代小菅陣屋、現東京拘置所)に置かれたことによる。
東京府との管轄区域の交換を経て、主に東京の北東郊外にあたる武蔵国豊島・足立・葛飾各郡内の旧幕府直轄地および旗本支配地を管轄した。
1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県を経て、同年12月25日(旧暦11月14日)に東京府および品川県と合併して東京府となった。
[編集] 大宮県・浦和県
1869年(明治2年)3月10日(旧暦1月28日)、武蔵知県事宮原忠治の管轄区域をもって大宮県が設置された。「大宮県」の呼称は、県庁を足立郡大宮(現さいたま市大宮区)に置くことを予定していたことによるが、暫定的に東京日本橋馬喰町の旧代官屋敷を県庁とした。
東京府や韮山県などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の北西郊外に当たる武蔵国足立・豊島・埼玉・新座・比企・横見・男衾・大里各郡内の旧幕府直轄領および旗本支配地等を管轄した。
同年11月2日(旧暦9月29日)、県庁を足立郡浦和(現さいたま市浦和区)に移し、浦和県と改称した。
1871年(明治4年)の廃藩置県を経て、同年12月25日(旧暦11月14日。または12月24日(旧暦11月13日))、岩槻県および忍県と合併して埼玉県となった。
[編集] 品川県
1869年(明治2年)3月21日(旧暦2月9日)、武蔵知県事古賀定雄(一平)の管轄区域をもって品川県が設置された。「品川県」の呼称は、県庁を荏原郡品川(現品川区)に置くことが予定されていたことによる。県庁は暫定的に東京日本橋浜町の旧旗本小笠原弥八郎邸に置かれ、北品川の東海寺への移転準備が完了する以前に品川県は廃止されてしまった。
東京府や韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の南郊から西郊に当たる武蔵国荏原・豊島・多摩・新座・入間各郡内の旧幕府直轄領および旗本支配地等を管轄した。
1871年(明治4年)の廃藩置県を経て,同年12月25日(旧暦11月14日)に東京府および小菅県と合併して東京府となった。また、多摩郡および新座郡、入間郡内の管轄区域は、神奈川県および入間県に移管された。
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