荏原郡
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日本 > 東京府 > 荏原郡(1936年まで)
荏原郡(えばらぐん、えはらのこおり)は武蔵国、のち東京府にかつて存在した郡である。境界変更で神奈川県橘樹郡(現在の川崎市)へ転属になった地域もあったが、郡域のほとんどは概ね現在の東京都城南地区に相当する。
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[編集] 地理
[編集] 歴史
文献における「荏原」の初見は、万葉集(7世紀から8世紀中葉)の東歌で、荏原郡の防人やその妻が詠んだ歌がある。
- 「わが門の片山椿まこと汝(なれ)わが手触れなな地(つち)に落ちもかも」 荏原郡上丁物部広足(ひろたり)
- 「白玉を手に取り持(も)して見るのすも家なる妹(いも)をまた見てもやも」 荏原郡物部歳徳(としとこ)
- 「草枕旅行く夫(せな)が丸寝せば家なる吾は紐解かず寝む」 掠椅部刀自売(くらはしべのとじめ)
続日本紀(797年)には武蔵国の郡名として荏原郡の名が見える。地名の由来は、新編武蔵風土記稿によれば奈良時代に荏(荏胡麻)が繁茂していたから、「荏の原」と言われる。延喜式に荏原郷の渡来人が大和朝廷に荏胡麻の油を献上したという記録が出てくるという。また、和名抄(10世紀前半)によれば、「江波良」(えはら)と訓じており、かつてはえはらであったが、室町時代頃からえばらと呼ばれるようになったようである。また、アイヌ語起源説もある。荏原の他に「江原」、「縁原」、「永原」と表記した例がある。
荏原郡の郡衙については定説はない。しかし、池上本門寺の台地の裾を通る古東海道以前の最も古い東海道と考えられている大井駅-(現東急大井町線荏原町駅付近)-(現東急池上線長原駅付近)-洗足池-小高駅(川崎市中原区小田中付近とも)-橘樹郡郡衙(高津区影向寺付近)の道筋にある、大井町線荏原町駅近くの旗ヶ丘八幡(中延八幡)、法蓮寺付近が候補地のひとつと考えられている。しかし、発掘調査によるそれを裏付ける資料は出土していない。
古くは、豊嶋郡と荏原郡の境は平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ直接東京湾まで至っていた。上記和名抄によれば武蔵国21郡の中の一つとしての荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田(みた)・木田・桜田・駅家(えきか)の9郷があり、現代区名で目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分をあわせた範囲に及んだ。 しかし、江戸幕府が置かれたため、江戸御府内は武蔵国として認識されず、市域外が荏原郡と認識され、武蔵国22郡の中のひとつとなった。この時代の豊嶋郡と荏原郡の境は古川といわれている。「新編武蔵風土記稿」によれば、江戸時代には荏原郡の村々は、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領に分かれ、合計で95ヶ村があった。
慶応から明治にかけて、武蔵知県事管轄、品川県、東京府と体制が混乱するが、明治初頭は三田・上高輪町・下高輪町・北品川宿・南品川宿を含む102ヶ町村だった。
直近の荏原郡は、1878年(明治11年)7月に布告された郡区町村編制法により設立された。この郡区町村編制法の公布によって、従前の数字による大区小区を廃し、東京府には新たに具体的な名をつけた麹町区・日本橋区等15区と荏原・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾・東多摩の6郡が設けられた。この「新」荏原郡は、従前の第7大区の90宿町村をその管轄下におさめ、郡役所は目黒川にかかる要津橋(ようじんばし)北岸、今の品川区北品川3丁目10番付近に置かれていた。 下記沿革は東京市制施行後の詳細である。
多摩川をはさんだ橘樹郡との境界は度々変動することがあった。明治になり廃藩置県後も多摩川の左岸と右岸に神奈川県との境界線が蛇行していて多数飛地が存在したが、その後、飛地の部分だけ堤防が途切れていることがあり、両府県はそれぞれ片岸を一体的に水防を行うべきとの理由から「東京府神奈川県境界変更に関する法律」は明治45年4月1日に施行され、府県境は多摩川の流路に変更され、荏原郡の内多摩川以南は神奈川県橘樹郡に編入された。野毛、等々力、丸子等、今も両都県にある地名は、この時の府県界変更によるものである。よって旧荏原郡の一部は現在神奈川県川崎市である。
そして荏原郡は1932年10月1日、東京市に編入されて消滅した。
[編集] 沿革
- 1889年(明治22年)5月1日
- 1897年(明治30年)7月20日 大森村が町制施行して大森町となった(2町17村)。
- 1907年(明治40年)10月8日 羽田村が町制施行して羽田町となった(3町16村)。
- 1908年(明治41年)8月1日
- 大井村が町制施行して大井町となった。
- 大崎村が町制施行して大崎町となった(5町14村)。
- 1919年(大正8年)8月1日 入新井村が町制施行して入新井町となった(6町13村)。
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)4月1日 世田ヶ谷村が町制施行して世田ヶ谷町となった(9町10村)。
- 1925年(大正14年)10月1日 駒沢村が町制施行して駒沢町となった(10町9村)。
- 1926年(大正15年)
- 4月1日 平塚村が町制施行して平塚町となった(11町8村)。
- 8月1日 池上村が町制施行して池上町となった(12町7村)。
- 1927年(昭和2年)
- 4月1日 碑衾村が町制施行して碑衾町となった(13町6村)。
- 7月1日 平塚町が名称変更して荏原町となった(13町6村)。
- 1928年(昭和3年)
- 1932年(昭和7年)10月1日 17町2村が東京市に編入された。
[編集] 範囲
荏原郡のあった概ねの範囲を現在の行政区画で記す。