女子教育
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女子教育(じょしきょういく)は、女子に対する教育のことである。
702年(大宝2年)に施行された大宝律令による大学寮には女子は入学できなかったが、典薬寮、雅楽寮で学び、女医、楽士になることはできた。平安時代、万葉仮名から女文字ができ、詩文を書くことから仮名交じり文に発展した。貴族の女子については、習字、絵画、琴と琵琶、読書に及び教育、特に和歌の修練は大切にされた。鎌倉時代になると尼僧になる子供は寺子屋に入り、室町時代には、庶民の子女も寺子屋へ入学するようになった。16~17世紀にはキリシタン宗門が九州を中心として各地に学校を設け、男女の区別なく教育を施すようになった。教科は、国語、ポルトガル語、算数、修身、音楽、作法であった。
1872年(明治5年)の学制には、女児小学校があり、尋常小学校で技芸を教えた。1899年(明治32年)の高等女学校令の実施以降、特にキリスト教宣教師、私学人による女子教育が振興され、科学、技術、地歴教育、習字、手芸、家政、体錬も加わったが、その基本とされた理念は良妻賢母であった。
女子の高等教育は教員養成から始められ、1874年(明治7年)に女子師範学校が設けられ、1890年(明治23年)には女子高等師範学校が設置された。明治30年代になると、日本女子大学校などの私立の高等教育機関が設けられたが、いずれも専門学校(旧制)であった。その後、大正年間には女子の高等教育振興の声も大きかったが、女子は大学教育から疎外されていた。
第二次大戦後、教育基本法が施行された後の女子教育は、高等学校における職業専門の課程・短期大学・女子大学と、私学を中心として発展してきた。しかし、昭和61年4月1日に施行された男女雇用機会均等法とともに現在では女性の社会進出が進み、女子教育のあり方も変化してしてきている。