安東貞美
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安東 貞美(あんどう ていび、嘉永6年8月19日 (旧暦)(1853年10月20日) - 昭和7年(1932年)8月29日)は、日本の陸軍軍人。台湾総督・朝鮮駐剳軍司令官や第10・第12師団長を歴任する。階級は陸軍大将勲一等功三級男爵。
飯田藩槍術師範安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範菅沼政治の子で、飯田藩士安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚した。志記との間に長男欽一郎を儲けるが、志記が早くに亡くなった為、島地菊子を娶った。これが貞美の生母で、貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
明治3年12月大阪陸軍兵学寮に入った貞美は明治5年6月これを卒業し、陸軍少尉心得に任じられる、翌年5月には陸軍少尉に進み、明治7年11月に陸軍中尉に進む。明治9年8月東京鎮台歩兵第1連隊中隊長心得を命ぜられ、明治10年3月征討別働第2旅団に編入され西南戦争に出征する。この戦役で負傷し、明治10年5月大尉に進む。明治11年4月の陸軍士官学校附の後明治16年2月歩兵少佐に進級し歩兵第2連隊第3大隊長を命ぜられる。明治17年2月に陸軍士官学校教官、明治19年4月参謀総長伝令使となり、明治20年3月参謀本部の第3局第1課長に就任する。翌年5月には第1局員に移り、明治22年8月再び陸軍士官学校教官となる。明治24年4月歩兵中佐に進み明治26年8月7日陸軍戸山学校長に就任する。明治27年8月30日には鉄道線区司令官に移り、同年12月1日歩兵大佐進級を経て明治29年9月28日陸軍士官学校長に就任する。後に専ら中将が補された陸軍士官学校長であるが、この頃は大佐が充てられることが続いていた。
明治30年9月28日歩兵第6連隊長に移り、明治31年10月1日陸軍少将に任じられ、台湾守備混成第2旅団長に就任する。明治32年8月26日歩兵第19旅団長に移り、明治37年3月の動員下令を以って日露戦争に出征する。明治38年1月15日陸軍中将に進級し第10師団長に親補される。日露戦争の功により明治39年4月12日功三級金鵄勲章を受章する。明治40年9月12日には男爵の爵位を授けられ、華族に列せられる。明治43年8月26日第12師団長に移り、明治45年1月14日朝鮮駐剳軍司令官を親補される。大正4年1月25日陸軍大将進級と共に待命となるが、同年5月1日佐久間左馬太の後を受け台湾総督に就任する。大正7年6月6日待命となり、同年8月19日後備役編入、大正12年4月退役となった。昭和7年8月29日薨去。同日付で勲一等旭日桐花大綬章を受章する。
貞美の長男貞雄は陸軍士官学校を29期で卒業し陸軍大佐に進む。また、貞美の娘は陸軍少将服部兵次郎、陸軍中将本郷義夫、東京帝国大学教授桑木厳翼、太田喜平、外交官笠原太郎に其々嫁ぐ。
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