山崎賢一
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山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは外野手。投打は左投左打。
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[編集] 来歴・人物
東京都生まれ、埼玉県育ち。所沢商業高校卒業。1981年にドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。背番号は「46」。しかし、体力不足であった為に最初の何年間は二軍生活を送る。1985年に背番号が「59」に降格。これを期に奮起し、一軍昇格を手にする。同時に一軍初出場も果たす。また、この年就任した近藤貞雄監督が目標とする機動力野球に合った選手として評価されたとも思われる。2軍のイースタン・リーグでは22個の盗塁を記録し盗塁王に輝く。この年の一軍成績は32試合に出場しプロ入り初本塁打を記録した。
翌1986年、当時一軍で「スーパーカートリオ」の一員としてチームを引っ張っていた加藤博一が負傷した為、更に山崎の出場機会は増加。主に代打、代走、試合終盤の守備固めとスーパーサブ的な役割を果たす。また、この年からはこけしバットというグリップエンドがこけしの頭のような形をしたバットを使用しだし、注目される。しかし、1987年に古葉竹識監督が就任。それが影響し成績が一気に低下し打率は1割台を記録し試合数も昨年の97試合から42試合となってしまった。
1988年シーズン中に屋鋪要の成績不振によりスタメン(主に中堅手)という機会を得る。山崎は期待以上の活躍を見せ、外野手であったジム・パチョレックを一塁にコンバートさせる程の活躍であった。1989年シーズンは開幕スタメンも経験。成績も例年に無い絶好調振りで、常に打率3割台をキープした。同シーズンからは不調であったカルロス・ポンセに代わり4番を打つことが多くなり、さらに調子を上げ、初のオールスターゲームに出場し知名度を上げる。また、同年にはゴールデングラブ賞、ベストナインに輝く。
1990年に背番号も「2」になったがこの頃から腰痛に悩まされ好成績を残せず。さらにチームが駒田徳広の獲得の為に、チームは主力選手の大量解雇方針の体制をとり、山崎もこの1人となってしまった。屋鋪や高木豊らと同時に解雇となったが、いち早くオファーが来たのは山崎であり、1994年に福岡ダイエーホークスへ移籍。そこでは主に代打、代走などの出場となりチームを支えた。1996年は遂に一軍出場ゼロになり、現役引退。引退後は同チームの二軍コーチを1999年まで担当。現在は同チームのスカウトをしている。
[編集] エピソード
- ニックネームは「番長」。これは山崎の目つきが悪かったことに由来する。現在三浦大輔が「番長」と呼ばれているが、元祖は山崎である。
- チームが横浜ベイスターズとなって初代の3番打者である。
- 「山崎一家」という熱狂的なファンによる応援団が存在した。1990年代の横浜応援団の中心的な存在であったが、大量の外野自由席の席取りなど悪い噂が後を断たず、1999年まで活動したが、同年にトラブルを起こし解散するまでに至った。(山崎がダイエーに移籍した1994年以降は「横浜一家」を名乗っている。)
- 1991年6月5日、横浜スタジアムで開かれた大洋-広島戦におけるサヨナラインフィールドフライ事件において、サヨナラのホームを踏んだランナーである。これに関しては谷博の項目に詳しい。
[編集] 通算成績
- 823試合 打率.265(2058打数546安打)19本塁打 202打点 63盗塁
[編集] 背番号
- 46(1981年~1984年)
- 59(1985年~1989年)
- 2(1990年~1993年)
- 26(1994年~1996年)