平泉渉
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平泉 渉(ひらいずみ わたる、1929年11月26日 - )は昭和後期から平成期(1960年代後半~1990年代前半)の政治家、外交官。元科学技術庁長官・経済企画庁長官。福井県勝山市出身。
[編集] 来歴・人物
国史学者で東京帝国大学教授の平泉澄の三男として生まれる。1952年東京大学法学部政治学科を卒業すると、外務省の在外研究員となり、フランスのグルノーブル大、マルセイユ大などに在学した。その後在仏大使館に勤務。1954年に訪仏した鹿島守之助を案内したことがキッカケで、守之助に見込まれて三女三枝子と結婚する。やがて国連日本政府代表部二等書記官、駐イラン大使館書記官を経て、1965年守之助に呼び戻されて鹿島建設専務取締役となり、同年第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選する。
1971年2回目の当選を果たした後、当時の佐藤栄作首相と守之助が親友同士だったこともあり、第3次佐藤改造内閣で科学技術庁長官として入閣する。異例の抜擢に「あっと驚くタメゴロー人事」などといわれたが、同年11月11日、同庁国立防災科学技術センターなどが川崎市で行った崖崩れ実験の失敗で、報道関係者ら15名が生き埋めとなって死亡するという惨事があり(川崎ローム斜面崩壊実験事故)、11月15日に引責辞任した。
その後、1974年~1975年にかけて、上智大学教授渡部昇一を相手に、学校での英語教育は「実用性」を重視すべきか「教養」と捉えるべきかを巡る論戦を行ったりした。1976年旧福井全県区から衆議院議員に鞍替えして当選、以後6回当選する。派閥は宏池会に所属した。
党国際局長等を経て、1985年第2次中曽根第2次改造内閣で経済企画庁長官として2度目の入閣を果たすが、これも当時の中曽根康弘首相と関係の深い鹿島家への配慮ではないかとささやかれた。翌1986年、フィリピンでアキノ政権が誕生し、マルコス前政権時代の経済援助に関する疑惑が取り沙汰されるようになると、平泉は「フィリピンの問題は、深く追求すると内政干渉になる」と発言した。フィリピンで手広く事業展開をしている鹿島建設に追求が及ぶのを防いでいるのではないかと見られ、野党は一斉に更迭要求を行ったが、中曽根首相の配慮により衆院本会議の陳謝で収拾をみた。1996年の総選挙で落選し、2000年・2003年も続けて落選している。2000年勲一等旭日大綬章受章。
英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語に堪能で、椎名素夫らと並んで自民党きっての国際派議員と目された。ただ国粋主義者の父親とは違い、政治思想的にはハト派を自認している。現在は(財)鹿島平和研究所会長、鹿島建設(株)相談役を務めている。
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