平泉澄
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平泉 澄(ひらいづみ きよし、 1895年2月26日(戸籍は15日) - 1984年2月18日 )は、日本の歴史学者。文学博士。白山神社名誉宮司。正四位勳三等。布布木、寒林子、また白山隠士と号す。「青々塾」主宰。
戦前戦中に東京帝国大学教授として、いわゆる皇国史観の提唱者とされる。
金沢工業大学名誉教授・平泉洸、科学技術庁長官・経済企画庁長官を歴任した平泉渉の父。金沢工業大学教授文学博士・平泉隆房の祖父。
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[編集] 経歴
- 1895年(明治28年) - 平泉寺白山神社祠官第二十三世・平泉恰合の嫡男として、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の勝山市)に生まれる。
- 1918年(大正7年) - 東京帝国大学文科大学史学科国史学科を卒業。
- 1923年(大正12年) - 東京帝国大学文学部講師嘱託となり、1926(同15)年には、助教授。
- 1930年(昭和5年) - 1年4ヶ月間欧州に留学。
- 1933年(昭和8年) -青々塾を開く
- 1935年(昭和10年) - 黒板勝美の後を承け、東京帝国大学教授となる。昭和天皇および秩父宮・高松宮へ進講。次いで満洲国皇帝に進講。また満洲建国大学名誉教授。
- 1945年(昭和20年) - 敗戦後、直ちに大学を辞職し、翌1946年より、故郷の平泉寺白山神社の宮司となり、国家の再興に尽力する。
- 1948年(昭和23年) - 3月20日、徳富蘇峰らと共に、公職追放(中央公職適否審査委員会にて言論文筆追放)処分を受けた(~1952年4月22日、追放解除)。景岳会を再興。東大朱光会・崎門会・建武義会・日本学協会を創立または参画。千早「存道館」を開講。下呂「楠公回天社」を創祀。皇学館大学学事顧問。神道史学会・神道学会・藝林会・水戸史学会世話人等。
戦後は、銀座に国史研究室を開設し(1954年~1974年)、主に月刊誌「日本」(大川周明から、その雑誌名を譲渡される)、学術雑誌「藝林」・「神道史研究」等に於いて、論文を発表している。
[編集] 評価
平泉が歴史学者として最も活躍したのは戦前の軍国主義時代である。平泉の歴史観が天皇中心のいわゆる皇国史観に則っており、「忠臣」の顕彰と「逆臣」の罵倒に過ぎないとの批判が強い。また、現在主流のいわゆる「戦後史学」と呼ばれる実証主義による客観的な史的評価とは一線を画し、主観的に評価する姿勢は現在の史学界では否定的に見らていれる。
その一方、平泉の研究成果が、戦後の網野善彦らによるアジール研究や黒田俊雄の寺社勢力論へと発展した事は有名である。次第に主張が政治的になるに従って、社会的名声の高まりとは裏腹に、歴史学者や学生の間では孤立を深めていったとも言われる。そのため、戦後になると完全に「時代遅れな過去の人」「皇国史観の権化」と評価され、平泉門下の学者でさえ、彼との関わりに触れる事を極度に嫌い、戦後の史学界から締め出された。
その一方、保守系の人々の中には信奉者や紹述者も多く、著作は版を重ねており、近年では復刊も多い。田中卓は、平泉について「平泉博士が当時、嘆きと怒りをこめて語られた言葉を、私(田中卓)は今に忘れ得ない。『和気清麻呂が道鏡によつて流罪にされたといふ悲劇を隠しては、命がけの忠義も、その輝きを失ふ。幕府が翼賛政治であるなら、後醍醐天皇の建武中興は、いつたい何のために行はれたのか』。平泉史学の特色は、人格主義・伝統主義に立脚し、具体的には国史の中ですぐれた人格を先哲・忠臣・義士に求め、正しい伝統を万世一系の皇統、天皇政治の中に論証されたことである。そして平泉博士は、世の国体論者が、ややもすると、詔勅や御製を錦の御旗として、国民を威圧するごとき態度をきらはれた。博士には、もとより独自の『天皇観』があり、それは国史研究の際の歴史観として、諸論文に貫通してゐる。しかし、研究の成果として論文・著書で常に説かれるところは、敬虔にして峻厳な、実践の学としての『臣道論』であつた。たしかに博士は、『皇国護持』といふユニークな言葉を創作され、これが戦前の思想界を風靡したことは事実である。しかし、これをもつて平泉史学を『皇国史観』と評するのであれば、むしろ正しくは『皇国護持史観』と呼ぶがよい。かの『皇国美化史観』が敗戦と共に忽ち崩れ去つたのに対し、平泉史学がなほ健全な理由はここにある」と、述べている(『平泉史学と皇国史観』)。
このことから考えて、平泉が戦時中の思想界を完全に牛耳っていたとは言い難く、平泉の思想といわゆる「皇国史観」の間には距離があったという指摘もある。
[編集] 著書
- 『中世に於ける精神生活』(1926年4月・至文堂/2006年12月・錦正社)
- 『我が歴史観』(1926年5月・至文堂/1983年4月・皇学館大学出版部)
- 『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月・至文堂/1983年10月・国書刊行会)
- 『日本歴史物語・中』(日本児童文庫・1928年6月・アルス/1981年6月・名著普及会)
- 『国史学の骨髄』(1932年9月・至文堂/1989年10月・錦正社)
- 『中世に於ける国体観念』(岩波講座日本歴史・1933年9月・岩波書店)
- 『武士道の復活』(1933年12月・至文堂/1988年10月・錦正社)
- 『革命論』(思想問題小輯6・1934年3月・文部省思想局)
- 『保元平治の乱と平氏』(岩波講座日本歴史・1934年8月・岩波書店)
- 『建武中興の本義』(1934年9月・至文堂/1983年5月・日本学協会)
- 『忠と義・増補』(1935年10月・私家版)
- 『万物流転』(1936年11月・至文堂/58年6月・皇学館大学出版部)
- 『後鳥羽天皇を偲び奉る』(1939年3月・水無瀬神宮)
- 『伝統』(1940年1月・至文堂/1985年5月・原書房)
- 『菊池勤王史』(1941年4月・菊池氏勤王顕彰会/1977年3月・皇学館大学出版部)
- 『国史概説』(東大講義)
- 『順徳天皇を仰ぎ奉る』(1942年9月・建武義会)
- 『天兵に敵なし』(1943年9月・至文堂)
- 『武生の国府』(1951年12月・私家版三田村俊一)
- 『芭焦の俤』(1952年5月・日本書院/62年2月・錦正社)
- 『名和世家』(1954年1月・日本文化研究所/1975年9月・皇学館大学出版部)
- 『山河あり・正・続・続々』(1957年10月~61年6月・立花書房/2005年3月・錦正社)
- 『解説近世日本国民史』(徳富蘇峰・時事新書・1963年3月・時事通信社)
- 『父祖の足跡・正・続・続々・再続・三続』(1963年6月~67年7月・時事通信社)
- 『寒林史筆』(1964年7月・立花書房)
- 『革命と伝統』(1964年11月・時事通信社)
- 『山彦・増補』(1967年11月・1975年4月・立花書房)
- 『先哲を仰ぐ・三訂』(1968年5月・日本学協会/1998年9月・錦正社)
- 『解説佳人之奇遇』(柴四朗・1970年5月・時事通信社)
- 『明治の源流』(1970年6月・時事通信社)
- 『少年日本史』(1970年11月・時事通信社/1974年1月・皇学館大学出版部/1979年2月・講談社学術文庫より『物語日本史・上・中・下』として、また1997年6月~2002年7月・英訳本3冊・青々企画あり)
- 『楠公・その忠烈と余香』(1973年8月・鹿島出版会)
- 『慕楠記』(黒木博司・1975年7月・岐阜県教育懇話会)
- 『日本の悲劇と理想』(1977年3月・原書房)
- 『明治の光輝』(1980年5月・日本学協会)
- 『悲劇縦走』(1980年9月・皇学館大学出版部)
- 『首丘の人・大西郷』(1985年5月・原書房)
- 『白山社の栞』(1956年3月・白山神社社務所)
- 『越前平泉寺』(1980年3月・勝山市)
- 『寒林年譜・正・続録』(1964年4月・62年2月・私家版)
- 『林下幽閑の記』(1964年4月・私家版)
- 『家内の想出』(1983年5月・鹿島出版会)
- 『寒風帖・白山清風帖・寒林集』(1984年10月・伊勢青々塾)
- 『平泉澄祝詞集』(1988年2月・私家版)
- 『続銀杏落葉』(1989年2月・私家版)
- 『柿の落葉』(1990年2月・私家版)
- 『Diary』(1991年2月・私家版)
- 『この道を行く・寒林子回顧録』(1995年5月・私家版)
- 『平泉博士史論抄』(1998年2月・青々企画)
- 『寒林子詠草』(2004年2月・日本学協会)
[編集] 編著
- 『南北朝時代史』(田中義成講義)
- 『東照宮史・本編』(1927年12月・東照宮社務所)
- 『江都督納言願文集』(1929年10月・至文堂)
- 『後法興院記・上・下』(1930年9月・至文堂)
- 『闇斎先生と日本精神・増補』(1932年10月・至文堂)
- 『国宝白山本神皇正統記・増補』(1933年4月・三秀舎)
- 『神皇正統記』(日本思想叢書10・1934年3月・文部省社会教育局)
- 『国宝白山本神皇正統記・増補』(活版・1934年11月・国幣中社白山比め神社)
- 『日本書記』(大日本文庫・1934年12月・春陽堂)
- 『神皇正統記・愚管抄』(大日本文庫・1935年10月・春陽堂)
- 『日本外史・上・下』(大日本文庫・1936年5月・13年2月・春陽堂)
- 『大鏡・増鏡』(大日本文庫・1936年11月・春陽堂)
- 『大日本史・一』(大日本文庫・1937年6月・春陽堂)
- 『続日本紀・上』(大日本文庫・1938年12月・春陽堂)
- 『楽翁公伝』(松平定信・1937年11月・岩波書店)
- 『大橋訥菴先生全集・全三巻』(1938年6月~43年7月・至文堂)
- 『日本学叢書・全十三巻』(1938年10月~40年9月・雄山閣)
- 『後醍醐天皇奉賛論文集』(1939年9月・至文堂)
- 『新日本の図南の夢』(菅沼貞風・岩波文庫・1942年12月・岩波書店)
- 『景岳橋本左内遺墨帖』
- 『出雲国風土記の研究』(1953年7月・出雲大社御遷宮奉賛会)
- 『泰澄和尚伝記』(1953年11月・白山神社)
- 『北畠親房公の研究・増補』(1954年11月・日本学研究所/1975年3月・皇学館大学出版部)
- 『大正昭和・福井県史・下』(1957年3月・福井県)
- 『大日本史の研究』(1957年11月・立花書房)
- 『近世日本国民史・全百巻』(徳富蘇峰・1060年9月~65年10月・時事通信社)
- 『近世日本国民史附図』(1965年9月・時事通信社)
- 『要約近世日本国民史・全十巻』(1967年4月~68年1月・時事通信社)
- 『歴史残花・全五巻』(1968年3月~71年7月・時事通信社)
- 『リヨースレル述・仏国革命論』(1971年5月・時事通信社)
[編集] 逸話
- 学生を呼ぶ時には「○○君」と呼ばずに、必ず「○○さん」または「○○氏」と呼んだ。「君とは、日本の君主たる、天皇陛下のほかにありえない」という理由からである。
- 学生が卒業論文に中世の農民史を取り上げたいと申出たところ、「百姓に歴史がありますか? 豚に歴史がありますか?」と、問いただしたといわれる。この話は、後に元東北大学名誉教授で日本社会史・農民史研究で有名な中村吉治の体験による。
- 陸海軍の士官に支持者が多く、五・一五事件や二・二六事件・宮城事件などに影響を与えたともいわれているが、平泉との直接の関係は無い。陛下の軍隊を動かしたことに憂慮にたえず、二・二六事件では自ら鎮圧せんとし、宮城事件のときは暴挙として説諭し、共に明確にこれを否定している。
[編集] 門下
(順不同)
[編集] 参考文献
- 名越時正著『日本学入門』(1979年4月・真世界社)
- 白山神社史編纂委員会編『白山神社史』(1992年5月・白山神社)
- 田中卓著『平泉史学と皇国史観』(2000年12月・青々企画)
- 千早委員会編『存道・千早鍛錬会の足跡』(2003年12月・日本学協会)
- 田中卓編『平泉澄博士全著作紹介』(2004年2月・勉誠出版)
- 田中卓「平泉澄博士と丙子の乱(二・二六事件)」(日本学協会『日本』2004年2月号~4月号)
- 植村和秀著『丸山眞男と平泉澄』(パルマケイア叢書・2004年10月・柏書房)
- 若井敏明著『平泉澄』(日本評伝選・2006年4月・ミネルヴァ書房)
[編集] リンク
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