幻の連判状事件
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読売巨人軍主力選手有志による三原脩監督排斥クーデター事件、通称幻の連判状事件(まぼろし の れんぱんじょうじけん)は1949年に起きた監督人事をめぐる事件。巨人の歴史上唯一の選手による監督更迭事件であると同時に三原脩・水原茂の大名将による通称「巌流島の対決」のきっかけとなった事件である。
[編集] 発生に至るまでのいきさつ
1949年シーズンの巨人軍は激動の年であった。2年前総監督の肩書きでチームに復帰し途中で事実上の監督として指揮を執った三原脩は(※ ちなみにこの年を含め監督は中島治康であったが2年前の途中から名目上となり事実上の助監督であった。)大幅補強を展開。戦前~戦後間もなくまで在籍していた藤本英雄・青田昇らを呼び戻しさらに前年には南海ホークスのエース別所毅彦を有名な別所引き抜き事件の末獲得、南海と遺恨試合を演じ三原が試合中に筒井敬三を殴る事件(※有名な三原ポカリ事件)を起こし無期限出場停止になったり、(※実際は100日で解禁)主砲の川上哲治が日本プロ野球史上初となる満塁サヨナラ本塁打を放ちこれをきっかけにチームは快進撃。戦後初(1リーグ制時代最後の)優勝へと突き進んだが、そんな最中に第1期黄金時代の名三塁手水原茂がこのシーズン途中に復員(同年7月20日)しチームに復帰(同年7月24日)した。水原は1942年のシーズン終了間際に応召され満州に赴いていた(ちなみにこの年の最高殊勲選手に選ばれたが長男の水原信太郎が代理で受賞している。)がソビエト連邦の対日参戦が原因でシベリア抑留の憂き目を見てしまう。そして水原は4年の抑留生活の末ようやく帰国しチームに合流したが復帰当時水原は40歳で現役選手としてプレーするには無理な年齢である。合理主義者として知られる三原は使わない事を決めたがシベリア帰りで名選手でもある水原をベンチ要員にした事は若手選手には「冷酷」と写りたちまち反感を買われる。チームが独走状態である事も拍車をかけた。
決定的となったのはこの年の秋の九州でのオープン戦。長崎県佐世保市で行われたゲームで三原は今季初めて水原を使用したが冬の長雨の中で行われたゲームであったため「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という印象をファンにまで与えてしまった。この事に若手選手は憤慨した。
- 「水さん(=水原の愛称)が気の毒だ!」
- 「三原の奴、なんて冷たい野郎だ!」
- 「黙ってる川上(哲治)と平山(菊二)もけしからん!!」
- 「あの3人、いつか気絶するまで殴ってやるぞ!!」
そして若手選手と主力選手の有志が結託して三原・川上・平山3名への殴打を東京都文京区小石川の料亭で行われる納会にて実行しようとした事が未遂に終わり結果若手・主力有志から三原監督が三行半を突きつけられている事が発覚。これが大晦日の抜き打ち人事(総監督専任・現場不介入)に繋がった。三原はチームを戦後初の優勝に導きながら棚上げという形で更迭されるという憂き目を見た。
[編集] 未遂事件から三原更迭・水原監督誕生
若手選手と主力選手有志による納会殴打事件は、川上と平山が不穏な空気を察知して欠席し、さらに三原が酒の入る前に席を立ったことで未遂に終わった。しかし、納会は球団首脳同席であるから、たちまち三原が選手から信任されていない事がばれてしまった。水原は「兄弟喧嘩はやるな。これから手を取り合い未来の巨人軍を作り上げよう。」と一席ぶった。これを見た首脳は「これで選手をなだめてくれ」と水原に金を渡し結果、最後まで出席した選手は銀座で飲みなおした。納会終了後、球団は選手個々を事情聴取したが、ほとんどが「三原更迭・水原監督」。さらに主将には人望のある千葉茂をというのまで。当時はGHQによる占領統治時代で民主化が重みをもっていた時代であったから選手の声を無視するわけにはいかなかった。そして大晦日、球団は抜打ち的に新人事を発表した。
「中島治康監督が選手専任となり後任に水原茂内野手が兼任で。三原脩総監督は留任するものの専任。」
続けて球団は「三原総監督は監督としての現場指揮から離れ1・2軍全体を管理しオーナーをアシストする。水原兼任監督は1軍の現場指揮にあたる」と付記した。この結果三原は総監督専任という形で事実上更迭される。
[編集] 空中分解→三原・巨人と決別
水原兼任監督就任で明けて1950年のシーズンに臨んだのはいいが本人曰く「納得いかない」状況下での船出であるから指揮に熱が入らない。また、前年末の2リーグ制移行の余波で主力・ベテランクラスを新生球団に譲渡したがさしたる補強をせずそれがチームの勝敗を左右するという事態に、加えて川上哲治・青田昇の両主砲が三原派であるため気まずい空気が漂う。一番悲惨なのは三原でユニフォームを脱がされた上に球団事務所で仕事をさせてもらえず自宅で囲碁を打ち憂さを晴らすという毎日。結局チームは空中分解。この年巨人が加盟したセントラル・リーグの初代覇者は松竹ロビンスに持っていかれた。
水原はこの年選手としても出場しているが「もはや、ここまで」と現役引退し監督専任となり翌年自ら動いて選手の補強に着手、川上をサンフランシスコ・シールズのキャンプに参加させる事により関係を改善。これでチームをまとめ翌1951年に初のセ・リーグ優勝→日本一に導き戦後初の黄金時代(第2期黄金時代)へと突き進む事となる。
三原は翌年西日本パイレーツから監督就任要請を受けたが躊躇無く引き受ける。そして西日本は西鉄クリッパーズと合併し西鉄ライオンズとなり自動的に西鉄の監督に就任した。これにより三原は巨人と決別する。打倒巨人軍を胸に秘め三原は博多行きの夜行列車に飛び乗る。これが1950年代後半のプロ野球名勝負「巌流島の対決」のきっかけとなるのだ。