別所毅彦
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別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督、野球解説者。旧名「昭(あきら)」。右投げ右打ち。愛称は「べーやん」「鬼軍曹」。
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[編集] 来歴・人物
第二次世界大戦が激化する1941年、滝川中学校のエースとして春の甲子園に出場。青田昇(のち読売ジャイアンツ)と別所を擁した滝川中は優勝候補であった。しかし、準々決勝の岐阜商業戦の九回表、青田昇の三塁ゴロを岐阜商の三塁手が悪送球し、一塁ランナーだった別所がホームに突っ込んだが、本塁上のクロスプレーで左肘を骨折。別所は左腕を三角巾で吊って延長12回裏途中まで投げ続けたが、痛みが限界に達し降板。チームは延長14回にサヨナラ負けを喫した。
この別所の力投に、翌日の大阪毎日新聞神戸版は「泣くな別所 センバツの花だ」との賛辞を贈った。これは後々まで別所の代名詞ともなった。1942年に南海に入団。2年目の1943年、5月26日の大和戦でノーヒットノーランを達成(四死球2)。また、5月30日の大和戦では1安打完封勝利を収めたが、惜しくも2試合連続ノーヒットノーランは逃した。この年、14勝をあげて南海のエースに成長した。
1946年、近畿グレートリングの大エースとして19勝を挙げ優勝に貢献。1948年には26勝し優勝に大きく貢献した。しかし、1948年オフに、いわゆる「別所引き抜き事件」が発生。二ヶ月の出場停止処分を受けての巨人移籍となった。1952年、松竹戦で九回二死まで松竹を完璧に抑え、完全試合まであと一人としたが、神崎安隆に内野安打を打たれ、惜しくも完全試合を逃した。神崎の生涯成績は、この1安打のみである。別所にとっては、悔やんでも悔やみきれない内野安打であった。巨人移籍後は長きに渡ってエースとして君臨、当時日本新記録の通算310勝をあげて1960年に引退。
1961年から巨人の投手コーチに就任したが、1962年、選手への殴打事件の責任をとって辞任。1964年大洋の投手コーチに就任。1966年退団。1968年サンケイ(1969年はアトムズ、1970年からヤクルト)の監督に就任し、1970年途中まで指揮を執った。その後はフジテレビ・文化放送・日刊スポーツで野球解説者。1979年野球殿堂入り。1992年からは川上哲治に代わり巨人OB会の会長を務めていた。解説者としては、白髪眉毛、巨人贔屓、高笑い、貧乏ゆすりで人気を得る。「球界の彦左(大久保彦左衛門)」と呼ばれていた。1999年6月24日急性心不全のため自宅で死去する。享年76。
[編集] エピソード
1996年の24時間テレビで当時絶望視されていた巨人の優勝の可能性について、あると答え後のメークドラマを予言した。
フジテレビの番組『タモリのボキャブラ天国』で、映画『氷の微笑』のもじりで「氷の別所」とネタにされ、別所本人も同番組VTRに出演した。
[編集] 投手成績
- 通算登板 662
- 通算完投 335(歴代4位)
- 通算完封勝 72(歴代4位)
- 通算無四球試合 43(歴代5位)
- 通算勝利 310(歴代5位)
- 通算敗北 178
- 通算セーブ (導入前)
- 通算セーブポイント (導入前)
- 通算勝率 .635
- 通算投球回 4350 2/3(歴代5位)
- 通算被安打 3629
- 通算被本塁打 165
- 通算与四球 1206
- 通算与死球 69
- 通算奪三振 1934
- 通算防御率 2.18
[編集] 打撃成績
- 通算試合 828試合
- 通算打率 .254
- 通算安打 500本
- 通算本塁打 35本
- 通算打点 248打点
- 通算盗塁 6盗塁
- 通算犠打 41個
- 通算犠飛 4本
- 通算四球 91個
- 通算死球 2個
- 通算三振 180三振
- 通算併殺打 25個
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 3回(1947、1952、1956)
- 最優秀防御率 1回(1955)
- 最多奪三振 1回(1947)
- 最高勝率 1回(1948)
- 最優秀選手(MVP) 2回(1952、1956)
- 沢村賞 2回(1947、1955)
- ベストナイン 6回(1947~1948、1951~1952、1955~1956)
- オールスターゲーム選出 6回(1951~1956)
- ノーヒットノーラン 1回(1943.5.26)
- 日本シリーズMVP(1955)
- 野球殿堂入り(1979)
- シーズン最多完投 47 (1947年 日本記録)
- 49.1イニング連続無失点 (1955.7.9~7.31)
[編集] 監督としてのチーム成績
- 1968年 昭和43年 4位 134 64―66 4 .492 13 130 239 3.28 46歳 サンケイ
- 1969年 昭和44年 5位 130 58―69 3 .457 16.5 139 .244 3.71 47歳 アトムズ
- 1970年 昭和45年 6位 130 33―92 5 .264 45.5 69 .215 3.78 48歳 ヤクルト
- ※1968年から1996年までは130試合制
- 監督通算成績 342試合 143勝190敗9分 勝率.429
[編集] 関連項目
- 兵庫県出身の有名人一覧
- 鶴岡一人
- 三原脩
- 水原茂
- 大友工
- 松田清
- 宇野光雄
- 与那嶺要
- 岩本尭
- 広岡達朗
- 土屋正孝
- 宮本敏雄
- 森祇晶
- 国松彰
- 馬場正平
- 藤田元司
- 長嶋茂雄
- 王貞治
- 伊藤芳明
- 堀本律雄
- 荻野一雄
- 秋山登
- 島田源太郎
- 水野成夫
- 岡田正泰
- 村田元一
- 石戸四六
- 福富邦夫
- 武上四郎
- 加藤俊夫
- 浅野啓司
- 松岡弘
- 久代義明
- 奥宮種男
- 高倉照幸
- 桑田武
- 八重樫幸雄
- 大矢明彦
- 内田順三
- 松園尚巳
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- ※カッコ内は監督在任期間。
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