弘山晴美
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弘山 晴美(ひろやま はるみ、1968年9月2日 - )は、徳島県鳴門市出身の陸上競技選手。旧姓・鈴木晴美。1993年2月に資生堂ランニングクラブの元選手であった弘山勉(2007年4月より新監督)と結婚。その後も長い間にわたり日本女子陸上界のエースとして君臨、「トラックの女王」の異名を持つ。オリンピックにはアトランタ、シドニー、アテネと長距離トラック代表選手として、3大会連続出場という快挙を成し遂げているが、日本女子陸上界で五輪3回出場は勿論弘山一人だけである。2007年9月で39歳となる現在も現役として活躍中、日本女子の陸上選手からは、目標とする選手に弘山の名前を挙げる事が多い。
[編集] 経歴
- 種目 :
- 血液型 : B型
- 身長・体重 : 160cm・47kg
- 出身地 : 徳島県鳴門市
- 出身校 : 徳島県立鳴門高等学校→国士舘大学
- 入社年 : 1991年
- 趣味・嗜好 : 文具集め、ショッピング / 餃子
中学時代から陸上を始めた。1500m、3000m、5000mの3種目で同時に日本記録を独占していたことがある。また、フルマラソンにおいても2時間22分56秒の記録をもつ。トラック競技においては、1993年の世界陸上選手権(シュツットガルト)の3000mと1996年のアトランタ五輪の5000mは共に予選落ちに終わったが、1997年の世界陸上(アテネ)の5000mは8位入賞、1999年の世界陸上(セビリア)の10000mは4位入賞を果たしている。
フルマラソン初挑戦は、国士舘大学の卒業記念として出走した1991年の名古屋国際女子マラソンで、まだ結婚する前の事である。レース終盤は極度の疲労と空腹感に悩まされて、途中歩いてしまいながらもなんとかゴールにたどり着いた。2回目のマラソンは、それから7年が経った1998年の初マラソンと同じ名古屋国際女子マラソンだった。30Km地点までは先頭集団のスローペースに余裕についたが、その後当時の日本最高記録を達成して優勝した、高橋尚子の猛烈なスパートには全くついていけなかった。それでも初マラソンのタイムを20分以上短縮する2時間28分台でゴールし、3位に食い込んだ。
1999年8月の世界陸上女子10000m4位入賞と、同年10月の日本選手権優勝の実績により、翌2000年シドニー五輪の女子長距離トラック種目の内定代表に、日本陸連から打診を受ける。しかし世界陸上では4位とはいえ、3位の選手とは1分近くの差が有り、世界と互角に戦うならフルマラソンしか無いと判断した弘山は、五輪内定を辞退。あえて女子マラソンの種目で、シドニー五輪へ挑戦する事となった(長距離種目の内定を貰いながらのマラソン挑戦は認められなかった。弘山の辞退により、世界陸上5位入賞の高橋千恵美が繰り上げで五輪内定となった)。
2000年9月開催のシドニー五輪女子マラソン代表選考レースだった、同年1月の大阪国際女子マラソンでは、2時間22分台の好記録でゴールしながらも、優勝したリディア・シモンにわずか2秒差で敗れて2位に終わる。既に市橋有里が昨年セビリア世界陸上での銀メダル獲得で内定済み、代表に選出された東京優勝の山口衛里と名古屋優勝の高橋尚子より、順位もタイムも劣っていた為、弘山は無念の落選となった。未だに陸上ファンなどからは「何故弘山が選ばれずに市橋が選ばれたのか。弘山が出ていたら女子マラソンで銅メダルは確実に獲れていた」と惜しむ声が多い。
五輪女子マラソン代表落選時の弘山は、夫の勉コーチと共に夫妻二人揃って、気丈に記者会見に応じていたが、内心落選のショックはかなり大きかった、という。それでも弘山はめげずに、一旦は五輪内定を辞退していた長距離トラック種目での五輪代表を目指す事となった。そして選考レースの水戸国際陸上大会で見事優勝、晴れてシドニー五輪女子10000m代表に選出される。夫の勉コーチは思わず感涙、その光景にもらい泣きする陸上ファンも多かった。そのシドニー五輪の女子10000mレース本番では、弘山は予選では余裕で通過したものの、決勝では超高速のペースについていけず、20位に終わる。しかし弘山は「色々な事が有った中、五輪の舞台に出場する事が出来て良かった」と、サバサバした表情で語っていた。
それから4年後、35歳となった2004年アテネ五輪も、女子マラソンでの出場を目指したが、選考レースの同年1月の大阪国際女子マラソンでは5位に終わり、再び五輪でのマラソン代表選出はならなかった。その後同年6月の日本選手権10000mで3位に入り、4年前と同じく長距離種目での五輪代表となった。アテネ五輪女子10000mは、前回のシドニーよりわずかながらも順位を上回り、18位のゴールだった。
36歳となった2005年1月の大阪国際女子マラソンで3位に入る。そして同年8月の世界陸上(ヘルシンキ)に、初めてマラソンの日本代表に選ばれた。世界陸上の本番では一度も優勝争いに加わらなかったものの、レース後半に追い上げて、8位入賞(2時間25分46秒)を果たした。また、通算3種目の世界陸上選手権入賞は、日本人で弘山が初めてであった。
37歳となった2006年3月の名古屋国際女子マラソンでは、41キロ地点までトップを走っていた渋井陽子を、一時は最大58秒もあった差を驚異的な粘りでかわして大逆転、悲願のマラソン初優勝を果たした。ゴール後に夫の勉ヘッドコーチ(当時)と抱き合い号泣した姿は、陸上ファンならずとも大変感動するシーンとなった。なお、37歳での日本女子選手の国内三大マラソン(東京・大阪・名古屋)優勝は、34歳で同じく名古屋で優勝した浅井えり子を3歳更新する高齢新記録である。
38歳となった2006年12月の全日本実業団対抗女子駅伝では、資生堂の6区アンカーを務めた。5区から6区への中継所での弘山は二位でたすきを受けるも、10秒差あった首位の三井住友海上のアンカー大崎千聖に途中で追いついた。そして競技場のトラックで引き離して逆転、ついに資生堂の初優勝に貢献した。資生堂陸上部の功労者であり、最初にゴールテープを切ってほしいという願いを叶えた弘山に対し、資生堂の部員達はゴール後に号泣していた。
翌2007年3月の名古屋国際女子マラソンで2連覇と、39歳となる同年9月の世界陸上(大阪)代表選出を目指したが、惜しくも橋本康子に敗れて2位に終わり、2大会連続の世界陸上女子マラソン代表選出はならなかった。
資生堂の社員らしく、競技においても女性らしさを大事にしており、一個人として競技に参加する場合は、基本的にブルマー状のランニングパンツを着用する。これは、部の大先輩であり、東京国際女子マラソンに第1回から連続して参加している、松田千枝の影響を受けているものと思われる。ただ、駅伝など団体の一員として参加する大会においては、一般的なランニングパンツを着用することのほうが多い。
[編集] 主な成績
- 中学時代 全日本中学選手権 800m/第2位
- 高校時代 全国高校総体 800m/第5位
- 大学時代 日本選手権 1500m/第5位
- 1991年 名古屋国際女子マラソン 2:51:36/33位(初マラソン)
社会人(資生堂)時代
- 1992年 第76回日本選手権 1500m,3000m/優勝
- 1993年 世界陸上選手権(シュツットガルト) 1500m,3000m/日本代表
- 1994年 アジア競技大会(広島) 3000m/2位
- 1996年 アトランタオリンピック 5000m/日本代表
- 1997年 世界陸上選手権(アテネ) 5000m/8位
- 1997年 第81回日本選手権 10000m/優勝
- 1998年 名古屋国際女子マラソン 2:28:12/3位
- 1999年 世界陸上選手権(セビリア) 10000m/4位
- 1999年 第83回日本選手権 10000m/優勝
- 2000年 大阪国際女子マラソン 2:22:56/2位/当時世界歴代9位、日本歴代3位
- 2000年 水戸国際陸上大会 10000m/優勝
- 2000年 シドニーオリンピック 10000m/20位
- 2001年 ロンドンマラソン 2:29:01/12位
- 2002年 大阪国際女子マラソン 2:24:34/2位
- 2002年 アジア競技大会(釜山)女子マラソン 2:34:44/2位
- 2003年 全日本実業団対抗陸上 5000m/優勝
- 2004年 大阪国際女子マラソン 2:31:07/5位
- 2004年 第88回日本選手権 10000m/3位
- 2004年 アテネオリンピック 10000m/18位
- 2005年 大阪国際女子マラソン 2:25:56/3位
- 2005年 第89回日本選手権 10000m/2位
- 2005年 世界陸上選手権(ヘルシンキ)女子マラソン 2:25:46/8位
- 2006年 名古屋国際女子マラソン 2:23:26/優勝
- 2006年 上海国際マラソン 2:32:33/2位(練習の一環として出走)
- 2006年 全日本実業団対抗女子駅伝 6区/区間賞・区間新記録(資生堂チーム優勝)
- 2007年 名古屋国際女子マラソン 2:28:55/2位
その他、全国都道府県対抗女子駅伝競走大会等にも出場。