東急バス淡島営業所
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東急バス淡島営業所(とうきゅうバスあわしまえいぎょうしょ)は、世田谷区三宿2丁目にあり、渋谷駅をターミナルに主に渋谷区西部、世田谷区東部地区の路線を所管する営業所である。全路線の運営を東急トランセ淡島営業所に委託している。営業所の略号は「A」。
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[編集] 沿革
淡島営業所の路線は、その成り立ちから3つの地域に分けることができる。営業所のある淡島通り周辺、富ヶ谷・幡ヶ谷などの渋谷区北西部、そして国道246号(玉川通り)以南である。
淡島通りの路線の歴史は、1923年(大正14年)に始まる。この年、日東乗合自動車によって、中渋谷~淡島前~世田谷町役場前(現在の若林小学校北側)間の路線が開通した。日東乗合は、1929年に玉川電気鉄道に買収されており、「東急バス10年の歩み」によると、淡島営業所の開設日はその玉川電気鉄道時代の1937年12月27日となっている。ここに至るまでの間、路線は宮ノ坂、経堂を経て恵泉女学園前まで伸び、世田谷町役場前~中原口(現・新代田駅付近)の区間でも運行されるようになった。その後、東京横浜電鉄、東京急行電鉄と経ていくが、戦前の淡島営業所は淡島通りの路線だけを運行する規模の小さい事業所であった。
渋谷区北西部の路線も同様に長い歴史を持つが、こちらは1920年(大正9年)に渋谷駅~三角橋(現・松陰学園前)の路線で創業した代々木乗合自動車に始まる。代々木乗合は、1928年に幡ヶ谷自動車を合併して中野区方面に路線を拡張したのち、1929年にエビス乗合自動車と合併して東横乗合となり、東京横浜電鉄の傘下に入った。この地区では、渋谷駅~東北沢~中野駅線、渋谷駅~代々木八幡~角筈線などを運行しており、三角橋に代々木乗合創業以来の代々木営業所(1940年に代々木本町に移転)を有していた。しかし戦後、大東急解体と同時に京王線以北の路線が京王帝都電鉄に譲渡されたため、渋谷駅と幡ヶ谷および初台に至る短距離区間だけが中途半端に残ることとなり、この地域は代々木営業所を廃止して淡島営業所に統合することとなった。
ところで、戦前は東京農業大学近くに世田谷営業所(現在はイメージスタジオ109となっている土地)が設けられていた。同営業所も淡島営業所と同じく、玉川電気鉄道から東京横浜電鉄に継承されたものであるが、やはり戦中~戦後の混乱の中で廃止され、淡島営業所に統合された。このため、一時は 玉川通り、世田谷通りを走る多くの路線を受け持ち、営業範囲が国領にまで及んでいたこともある。しかし、昭和30年代になると瀬田、弦巻の各営業所が新設され、世田谷区を走る路線はそれらの営業所に移管された。一方、新たに渋谷駅を起点に三宿・下馬方面を回る短距離の循環路線や、これに並行して大森に至る渋谷線(現在は渋谷駅~多摩川駅など)が開通し、代わってこれらを受け持つようになった。以上のようにして、淡島営業所は最初に記した3地域の路線を管轄するようになったのである。
平成に入ってからの動きとしては、東急トランセへの運営委託がある。最初に委託されたのは、1999年の渋谷線であるが、当時は東急トランセの営業所が下馬にしかなかったため、同年8月28日に下馬に移管する形をとった。なお、これと引き換えに、瀬田営業所からグランド線(渋谷駅~田園調布駅)が移管されており、営業エリアに若干変化が生じている。その後、2003年1月16日に東急トランセ淡島営業所が開設され、同時に三宿・幡ヶ谷・NHK3線の委託を開始、さらに同年3月16日に下馬線、7月16日にグランド線と続き、9月16日の若林線を以って委託路線化を完了した。
この営業所では渋谷区コミュニティバスハチ公バス夕やけこやけルートを渋谷区から受託され、「渋谷循環線」という名で運行している。
[編集] 現行路線
[編集] グランド線
- 渋11:渋谷駅~大橋~三軒茶屋~駒沢大学駅前~東京医療センター前~中根町交番前~自由が丘駅入口~田園調布駅
- 渋11:渋谷駅→大橋→三軒茶屋→駒沢大学駅前→東京医療センター前→中根町交番前→都立大学駅北口
グランド線・渋11は、渋谷駅から国道246号、自由が丘駅入口を経由して田園調布駅へ向かう路線である。交通量の多さ、自由が丘周辺の道路幅の狭さ、大井町線踏切の存在などから遅延に悩まされるが、およそ10分おきに走っているので便利な路線である。線名は、駒沢の駒沢ゴルフ場跡地(もと陸軍練兵場、のち駒沢オリンピック公園)にかつて存在した「駒沢球場」に由来する(現在の駒沢公園の野球場とは異なる)。同球場を本拠としたプロ野球チーム・東急フライヤーズ(後の東映フライヤーズ、現北海道日本ハムファイターズ)とのタイアップ路線でもあった。
この線の原型は、昭和初期に目蒲乗合が開通した自由が丘駅~駒沢ゴルフコースを結ぶ路線である。戦後は、1953年5月21日に自由が丘駅~三軒茶屋の運行が開始、1954年9月10日に渋谷駅に延長され、1956年11月15日に自由が丘から田園調布駅に発着点が変更された。当初は、目黒営業所が担当したが、田園調布への延長後瀬田営業所の担当に変わった。
この路線は、利用者が多いだけでなく、自由が丘や田園調布といった東急エリア随一の洗練された街並みの中を走る路線である。このため、運行車両のグレードアップにより、他線との差別化が図られてきた。瀬田営業所所管時代の1986年には、シート、サスペンションなどの設備を向上させたロマンス車(貸切兼用車両)が集中投入されている。同車のボディには、従来の銀色と赤色に金色を追加した豪華な装飾が施されており、他車との差は歴然としたものだった。
1998年にロマンス車が廃車時期を迎えると、その置き換え車両として、当時はまだ珍しかったノンステップ車が大量導入され、再び注目を集めた。以後、現在に至るまでこのノンステップ車を中心とした運用になっている。なお、2000年4月からは、一部にラッピング広告を施した車両(東急body bus)が登場している。
なお、同路線には1979年3月16日から1982年6月15日の短期間、「園05」系統が存在した。この系統は、田園調布駅から真中交差点(「駒沢大学駅前」交差点)までを渋11とともに走り、真中→駒沢→駒沢公園通り→駒沢通りと進み、自由通りに戻って田園調布へ向かう運行形態であった(恵33、黒04と同様)。行き先表示は、駒沢営業所前を通るも、渋11と分岐する「駒沢大学駅」とされ、渋11の折返し路線的な意味があることを案内表示上示していたといえる。
また、瀬田営業所時代には、入庫時、田園調布から園01系統同様に環八を瀬田営業所まで向かう便のほか、渋谷発の瀬田営業所行きでは、八雲三丁目で自由通りに入らず目黒通りを直進、黒02のルートで上野毛駅まで進み、環八へ右折して瀬田営業所に向かう便が存在した。1999年9月1日に淡島営業所に移管され、出入庫時に運行されていた渋谷駅~瀬田営業所系統は渋谷駅~都立大学駅北口に変更された。
[編集] 三宿線
- 渋31:渋谷駅→大橋→三宿→下馬一丁目→東山一丁目→渋谷駅
渋谷駅を起点に、玉川通りを三宿交差点まで進み、下馬一丁目、東山一丁目を経て渋谷駅へと戻る循環線である。概ね10分~15分おきに運行されている。原則的に全長9mの中型ワンステップ車(新低床バス)で運用されているが、まれに大型車となることがある。朝早いバスは渋谷駅発ではなく、淡島営業所から回送で出庫、多聞小学校付近の裏道経由で三宿交差点に出て、三宿のバス停から営業を開始する。
この路線は、昭和30年代の開通だが、ごく初期に限り渋谷駅~三宿~上目黒五丁目(現・五本木二丁目)として運行していた。路線名は三宿線、あるいは三宿循環線だが、乗客への案内上は「下馬一丁目循環」を用いる。かつては線名の三宿循環、あるいは「渋谷駅~(循環)~蛇崩」という案内を停留所や方向幕に用いたこともあった。なお、この「蛇崩」は、下馬付近の旧い地域名であり、三宿病院前の旧称でもある。
[編集] 下馬線
- 渋32:渋谷駅→大橋→三宿→下馬一丁目→下馬営業所→野沢龍雲寺→世田谷観音→渋谷駅
渋谷駅から玉川通りを三宿まで走り、三宿通り・下馬通り・環七を経て野沢龍雲寺に至り、野沢通りを経由して往路のルートに合流し、渋谷駅へ戻る循環路線である。平日朝間は5分間隔、日中は概ね10分間隔で運行されている。平成15年6月16日から同じルート・渋32系統として深夜バスが運行されているが、この深夜バスは下馬営業所が渋谷線として担当する。この線も出庫時の運用方法は三宿線と同様である。また深夜も三宿止まりがあり、三宿交差点を直進して車庫へ戻る。この線も昭和30年代の開通だが、三宿循環より数年あとのことである。
車両はツーステップ車が中心。
[編集] 若林線
- 渋51:渋谷駅~駒場~淡島~若林折返所
- 渋52:渋谷駅~駒場~淡島~若林~世田谷区民会館(世田谷区役所)
若林線は、渋谷駅から淡島通りを経由して世田谷区の若林方面に運行する路線である。若林折返所までの渋51と、世田谷区民会館を発着する渋52からなり、淡島通りの本線格の路線であるとともに営業所の主幹路線である。
もともと淡島通りでは、戦前から続く宮の坂経由で経堂に至る路線が終戦直後まで運行されていたが、1949年3月10日よりこの若林線が渋谷駅~若林間で運行されるようになった。その後、1962年に渋谷駅~世田谷区民会館の便が開通した。この便はその後上町線に統合され、渋谷駅~淡島~用賀~田園調布駅となったのち、昭和40年代に再び渋谷駅~世田谷区民会館となったが、昭和50年代に淡島営業所に移管されて若林線に統合されるまでの間、区民会館線と称して弦巻営業所が担当していた。
渋51は、淡島営業所の路線の中で最も本数が多く、平日朝間は2分おき、日中でも1時間に10本は走っている。都内の東急バス路線の中ではドル箱のひとつである。1987年11月2日より、平日に深夜バスも運行されるようになり、2006年5月20日からは土曜日も運行している。渋52は、線形の悪さや環七通りと世田谷通りの渋滞などのため、1時間に1~2本程度の運行となっている。
渋51には2002年8月から、渋52には2003年初頭からノンステップ車が運用に入るようになった。渋52への導入は、世田谷区からの要請を受けてのものである。なお、渋谷駅~淡島間では、並行する小田急バスの渋54系統(渋谷駅~梅ヶ丘駅・希望ヶ丘団地)も早くからノンステップ車を導入しており、現在は運行されるバスのほとんどがノンステップ車となっている。
[編集] 幡ヶ谷線
幡ヶ谷線は、渋谷駅から東大駒場キャンパスの北側を走り、東北沢駅を経由して幡ヶ谷折返所へ向かう路線である。1時間に2本程度の頻度で運行している。かつては大型車が走っていたが、途中経路が狭いこともあり、現在は中型ワンステップ車(新低床バス)にかわっている。
この路線は、1920年に開通した代々木乗合自動車の本線を起源とする古い路線である。当初の終点は三角橋(現在の松陰学園前)であり、代々木乗合の本社(のちの代々木営業所)もそこにあった。昭和に入ると中野方面に延長され、戦中までは6号通り、鍋屋横丁を経て中野駅まで直通していた。
戦後は、1946年4月21日に渋谷駅~東北沢駅間で運転を再開した。その後、大東急の解体と同時に京王帝都電鉄に中野営業所を譲渡し、東急のエリアは幡ヶ谷以南となったが、1950年5月6日からは都営バスとの相互乗り入れ線として、渋谷駅をまたいで幡ヶ谷~東京駅間をアンティーク通り・六本木・溜池・新橋経由で直通するようになった。1972年11月12日以降の系統番号を東85であった。
1977年12月16日には直通運転を取りやめ、再び渋谷駅が起点となるが、都営のほうは並行路線があったため、この時全線が廃止になっている。その後の渋谷駅乗り場は、東口、東急玉川線の渋谷駅跡地と移り、マークシティの建設により1994年に同乗り場が廃止されると南口バスターミナルに移動した。これに伴い、幡ヶ谷行きの方向幕は誤乗を防ぐために全面青地のものに交換されている。
[編集] NHK線
- 渋谷駅~NHKスタジオパーク(京王バス東・永福町営業所と共同運行)
渋谷駅とNHKスタジオパークとの間を無停車で結ぶ短距離の路線である。京王バス(現・京王バス東)との共同運行で2000年3月18日に開業し、運賃は一般路線より安い150円に設定されている。NHKのキャラクターがラッピングがされたこの路線専用の中型ワンステップ車(新低床バス,三菱MK)が基本的に充当するが、臨時で一般車が充当することもある。
[編集] 廃止路線
[編集] 初台線
- 渋61:渋谷駅→富ヶ谷→代々木八幡→東京オペラシティ南→初台駅→代々木八幡→富ヶ谷→渋谷駅
- 2000年6月16日 京王バスが共同運行を開始する。
- 2002年6月1日 京王へ路線を移譲し廃止。
路線の詳しい説明は京王バス渋谷初台線を参照。
[編集] 代田線
- 渋53:渋谷駅~駒場~淡島~代沢小学校~代田四丁目
代田線は、渋谷駅から淡島まで若林線と同じルートを走り、その後代沢小学校を経由して環七沿いの代田四丁目に至っていた路線である。1978年12月20日に廃止された。この線は、東急の戦時休止路線の中では最後に復旧した路線で、1953年10月16日に戦後の運転を始めた。なお、戦前は玉川電気鉄道時代に代田四丁目をほぼ同位置に「中原口」という停留所があり、ルートは一部異なるが、淡島通り側からそこまでの路線があったことが記録されている。
[編集] 車両
2005年まで路線車は三菱ふそう車とハチ公バス用の日野ポンチョのみであったが、2006年から日野ブルーリボン2も投入されている。大型短尺車と中型車、小型車のみで中型ロング車などは所属しない。大型短尺車はグランド線・若林線で運用されるノンステップ車が中心だが、ツーステップ車も所属し下馬線や若林線深夜バスを中心に運用されている。中型車は三菱ふそう製のワンステップ車のみで東急バスでは珍しくスロープ付ではなく車椅子対応ではないが、NHK線専用車は車椅子に対応していて青一色の専用塗装がされている。新低床バスと表示されている。三宿線、幡ヶ谷線、NHK線で運用。小型車は初代日野ポンチョが所属。渋谷区コミュニティバスハチ公バスに運用される。他に渋谷駅近辺の東急グループ各施設を結ぶ無料バス用のマイクロバスが所属。
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