桂小春団治
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桂 小春団治(かつら こはるだんじ)は、上方落語の名跡。本来の表記は「小春團治」である。当代は3代目。
- 初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、初代桂春団治門下。詳細は本項を参照。
- 2代目 桂小春団治(1932年3月5日 - )は、2代目桂春団治門下。春坊、2代目小春団治、2代目露の五郎を経て、2代目露の五郎兵衛を襲名。
- 3代目 桂小春団治(1958年2月15日 - )は、3代目桂春団治門下。春幸、小春を経て、3代目小春団治を襲名。
[編集] 初代
初代 桂小春団治(1904年10月20日 - 1974年8月15日)は、本名: 林龍男。後、舞踊界に転向し、花柳芳兵衛を名乗る。
大阪市西区九条に生まれる。父は初代橘ノ圓門下の橘家圓丸。初め父の門下で、子役の色物として立花家小圓丸を名乗り、互楽派の松島文芸館で初高座。1912年5月、寿々女会結成に際し父と共に移籍し、4代目笑福亭松鶴門下となり笑福亭児鶴を名乗る。後、再び立花家小圓丸で復帰するが、初代橘ノ圓門下に移り、橘ノ次郎を名乗る。それから更に三遊亭圓子門下へと移り、三遊亭子遊と改名。この頃、初代桂文我に芝居噺の稽古を受ける。最後に、父と共に初代桂春団治門に移り、父は桂団丸を、息子は小春団治を名乗る。
師の春団治と共に吉本興業に属し、『本能寺』『綱七』などの芝居噺と、『円タク』やアメリカの禁酒法をヒントに作った『禁酒』などの新作落語で人気を博したが、落語を軽視していた吉本に反発して、1933年に退社し、4代目桂米團治らと共に「桃源座」を結成。
しかし、当時の上方演芸界は吉本に支配されていたため、やがて大阪での活動が困難になり、東京に移住。吉本から「小春団治」の名前を返せと言われ、本名で活動していたが、後、4代目柳家小さんのもとに身を寄せ、桃源亭さん生を名乗る。やがて、三遊亭金馬の紹介で東宝の専属となり、再び本名で東宝名人会に出演。
その後、吉本と和解して大阪に戻り、林芳男を名乗る。元々、舞踊は山村流の名取であったが、1939年、花柳芳次郎に入門し、花柳流に転向。その際、「落語界とは一切の縁を断つ」と誓約させられた。
小春団治は、師匠・春団治が最も愛した弟子だったが、上記の経緯により、師の葬儀に参列することさえ許されなかった。春団治の名跡は、実力もあり、吉本せいの覚えもめでたかった、初代桂福団治が継ぐことになった。
晩年、NHKに芝居噺を記録保存し、芸の伝承に努めると共に、毎日放送「素人名人会」の審査員を務めた。
[編集] エピソード
- 月亭春松編『落語系圖』によれば、上記の初代小春団治は2代目とされ、それ以前に初代のいたことが記されている。この「初代」は、桂松団治の実子で、桂小文字を名乗った噺家だという。しかし、この「初代」は大成しなかったため、結局、師匠・春団治と同じく、2代目が初代と呼ばれることになったらしい。
- 現在の露の五郎兵衛が2代目小春団治を襲名する際、初代であった花柳芳兵衛に挨拶をした所、「この名前は何かと損する名前やさかい、わたしとあんたで"止め名"にしまひょ」と言われ、面食らったという。事実、2代目も後年所属する吉本興業側から、「小」の字が気に入らない、と改名を促されることになる。それでも1999年、3代目が誕生した。