桶川宿
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桶川宿(おけがわじゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて6番目の宿場。
現在の埼玉県桶川市にあたる。旧中山道には旧旅籠の「武村旅館」があり、現在も営業していて、当時の雰囲気を醸しだしている。(当時は、36軒の旅籠が軒を連ねていた)また、桶川宿本陣(府川家)は、当時の建物の一部が残っている。文久元年(1861年)11月13日、江戸に下向の際、和宮が宿泊している。加賀藩前田家をはじめとする参勤交代の大名が桶川宿を定宿し、15代将軍徳川慶喜の父、徳川斉昭も足跡を残している。少し奥まったところの稲荷神社には、二基の石灯籠があり、これは紅花商人24名が寄進したものである。桶川宿を中心とした桶川郷一帯は紅花の産地であり最上地方に比べ「早場もの」として喜ばれた。拝殿に向かって右側に大きな力石(長さ1.25m、幅0.76m、重さ610Kg)、が置いてあり、嘉永5年に江戸一番の力持ちと評判の力士三ノ宮卯之助が、これを持ち上げた。
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[編集] 最寄り駅
[編集] 史跡・みどころ・文化財
[編集] 紅花について
桶川宿近郷の紅花は、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られ、最上地方の紅花よりも気候が温暖で一足早い6月に収穫できることから、「早場もの」として紅花商人に歓迎された。よって、山形の「最上紅花」に次いで全国第2位の生産量を誇り、上村(桶川上村ともいう、現在の上尾市上)、南村(桶川南村ともいう、現在の上尾市南)、町谷村(大谷領町谷村ともいう、現在の桶川市神明、朝日)など桶川郷一帯の畑で盛んに栽培された。当時の隆盛や面影は稲荷神社の商人寄進の灯篭と在地問屋・須田家の古文書、紅花仕入れ帳などの記録に偲ぶことができる。上村の農家の七五郎が、江戸の小間物問屋「柳屋」の手代から紅花の種が渡され栽培したのが、武蔵地方で紅花栽培の始まりであるという一文が、江戸の勘定奉行の記録に残っている。桶川宿は紅花により富がもたらされたといっても過言ではない。当時の取り引き価格を比較してみると、米は1反あたり平均2両、紅花はその倍の4両にも達し、幕末には「最上紅花」を上回る相場で取り引きされていた。江戸や京などの商人達も集まるようになり、富とともに文化ももたらされた。たとえば今も残る桶川祇園祭り(夏祭り)を見ると、山車の引き回しは京都から、囃子は江戸から取り入れ、桶川の人々が独自に発展させた伝統行事であることがわかる。また、宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒だった戸数は、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800年)には247軒に達し、桶川宿がいかに発展していったかがわかる。これだけ隆盛を誇った紅花も、明治期に入ると科学染料の導入などから次第に衰退していく。平成6年、桶川市は紅花を街づくりのシンポルとしてよみがえらせ、「べに花の郷づくり事業」を展開している。
[編集] 隣の宿
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