鴻巣宿
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鴻巣宿(こうのすじゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて7番目の宿場。
慶長7年(1602年)まで現在の北本市に宿場が置かれていたが、江戸幕府の宿駅整備にともない現在の鴻巣宿の場所に宿場ごと移転している。これにより、それまでの鴻巣宿は元の鴻巣から本鴻巣村(あるいは元鴻巣村)と呼ばれるようになり、元の宿場であることから本宿村(あるいは元宿村)と呼ばれるようになった。(本宿は明治年間に北本宿と改められた。昭和3年に高崎線の駅が開設された際に駅名として採用され、昭和18年に成立した新村の村名となった。これが後に省略され北本となる。)
宿場移設の理由として桶川宿に近すぎた為との説があるが、上尾宿と桶川宿は桶川宿と鴻巣宿より近いにもかかわらず宿場が置かれていた点からこれのみが要因であるとはいえない。同様に熊谷宿から遠すぎた為とする説も宿駅整備以前に宿場として機能していた吹上を正規の宿場とすれば問題とならなかったことからこれも決定的な要因とは成り得ない。鴻巣御殿の建設や大間村(現在の鴻巣市大間)の古刹、勝願寺が徳川家の庇護を受け鴻巣宿に移ったこと、地域の有力武士であった小池氏が積極的に移設を推進したことなどいくつかの要因が重なって移設が行われたと見るべきである。
この宿場の移設によって、それまで市宿新田と言われていた場所が鴻巣宿となった。鴻巣宿は、中山道の他に松山(東松山市)や忍(行田市)、私市(北埼玉郡騎西町)に向かう道との宿継ぎが行われ、中山道では比較的大きい宿場であった。
宿場の入口にある勝願寺は、浄土宗の名刹の大きな寺で、2世住職円誉不残上人が徳川家康の帰依を受け、朱印地30石を賜っている。家康の次男、結城秀康が結城から福井へ転封になったとき、結城城の御殿をすべてこの寺に賜わったといい、大方丈には金の間・銀の間・獅子の廊下などがあり、鐘も結城の華蔵寺から移したものであった。
また、徳川家康、秀忠、家光の徳川将軍三代が鷹狩に来て長逗留するために鴻巣御殿が建てられていた。綱吉の時代には生類憐れみの令によって廃止したが、吉宗の時代に鷹の訓練やおとりの鳥類の飼育をする施設として復活した。
鴻巣近郷の上谷新田(鴻巣市上谷)で農間期につくられた雛人形は、鴻巣雛として江戸周辺にも多く出荷された。現在も鴻巣市人形には雛人形の製造問屋が軒を連ねる。
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