植村甲午郎
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植村 甲午郎(うえむら こうごろう、明治27年(1894年)3月12日 – 昭和53年(1978年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 – 1970年代)の財界人、官僚。第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年 – 1974年)。
父親は大日本麦酒常務取締役を務め、日本鋼管の設立にも関わった植村澄三郎。物理学者で元東京大学理学部教授の植村泰忠は長男、元仙台放送社長の植村泰久は二男。
[編集] 来歴・人物
東京生まれ。慶應義塾幼稚舎→東京府立一中→第一高等学校→東大という超エリートコースを歩む。慶應幼稚舎→普通部コースでは遊んでしまうのではと心配した両親の勧めもあり、府立一中という当時の官立のエリートコースへ道を変えることとなる。入学後は、幼稚舎時代の気風を引き摺っていたのか勉学に身が入らなかったが、中学四年次にさすがに将来展望に焦りを感じ、級友らの助けを借り勉学に邁進することとなる。以後、一高受験するも失敗、一年間浪人した。当時、一高入学試験では論作文が出題され思うように書けず、山の手・お坊っちゃん育ちの薄弱な人生経験不足を痛感した。その時に得た教訓として「何事も付け焼刃ではモノにはならない」ということであったと、のちに私の履歴書の連載において語っている。
1918年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、農商務省に入省。大臣秘書官、資源局調査課長を務めた後、企画院調査部長となり、国家総動員法策定の指揮を執る。1940年企画院次長。1941年には九州の石炭王・松本健次郎に請われて、「石炭統制会」の理事長となる(松本が会長)。戦後も松本の引きにより、1945年経団連の前身である「日本経済連合委員会」の副委員長兼事務局長となり、1946年に経団連が発足すると引き続き事務局長に就任した。翌1947年に公職追放。
1951年追放が解除されると経団連に復帰し、相談役を経て副会長に就任する。1955年には植村が中心となって「経済再建懇談会」を立ち上げ、これまでの個々の企業による献金から、戦前から岸信介ら商工省・企画院人脈との深い繋がりから、経済界・財界から政界・自由民主党への今に至る画期的な献金システムを整備した。俗にいう「経団連方式」である。またニッポン放送社長・会長、日本航空会長等も務めた。
1960年、足立正(日本商工会議所会頭)らと発起人となり社団法人日韓経済協会を設立。自ら初代会長に就任する。
1968年、石坂泰三の後を継いで経団連会長に就任すると、副会長を5人から7人に増員し、集団指導体制の下で調整力を発揮しながら、石油ショック・日米繊維交渉など内外の経済問題に対処していった。業界内・間の調整にその威力を発揮したが、この頃の環境や公害問題への対処に植村の限界があったとも云われている。1974年には会長を土光敏夫に引継ぎ、名誉会長となる。1972年勲一等旭日大綬章受章。1978年8月1日死去。享年84。
松本清張小説・「深層海流」が植村をモデルにしている。
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