済州島四・三事件
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済州島四・三事件 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 제주 4•3 항쟁 |
漢字: | 濟州 4•3 抗爭 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
チェズ サ サム ハンジェン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Jeju massacre |
済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。
目次 |
[編集] 概要
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソビエト連邦軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザン金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。
1948年に入ると、金日成は2月に朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主人民共和国の成立を通告した。当初から武力による強制統一を考えていた金は、南部のパルチザンに蜂起するよう呼びかけていた。対して南部は、南朝鮮労働党を抜きにして単独選挙を行うことを決断した。これは、国土の分断を決定するものであり、選挙反対派が運動を開始したが、済州島では南朝鮮労働党に率いられた島民が「人民遊撃隊」を組織し、4月3日に武装蜂起した。
蜂起は、朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、および北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)などの、治安部隊によって短期間で撃滅された。残る人民遊撃隊は、ゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は遊撃隊員の処刑と、同調島民の粛清を行った。これは、8月13日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。1950年に南北朝鮮労働党が合併し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が侵攻(朝鮮戦争)すると、いよいよ朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。
流刑島だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、その一部は移住した。韓国併合後、植民地時代の初期に朝鮮から日本に渡った20万人ほどのうち、大半は済州島出身であった。敗戦による独立によって、そのほとんどが帰国した。しかし、四・三事件の難を逃れて済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。
朝鮮労働党が絡むとされる上に、犠牲者が余りにも多く、「反共」を国是に掲げた軍事独裁国家であった韓国では、責任の追及が公的になされておらず、また事件を語ることはタブー視されてきたため、未だに詳細は解っていない。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪、2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した[1]。
[編集] 題材にした作品
- 『火山島』全7巻:金石範 - 文藝春秋(1983年1月 - 1997年9月)ISBN 4163631704、ISBN 4163631801、ISBN 4163631909、ISBN 4163635904、ISBN 4163636005、ISBN 4163636102、ISBN 416363620X
[編集] 脚注
- ^ 『【済州4.3事件】盧大統領、慰霊祭に出席・謝罪』、朝鮮日報、2006年4月4日。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 朝鮮戦争 | 韓国の歴史 | 朝鮮民主主義人民共和国の歴史 | 大量虐殺