王道プロレス
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王道プロレス(おうどう-)とは、ジャイアント馬場が提唱したプロレススタイルの俗称。もしくはそのスタイルのコンセプト。馬場プロレス、馬場スタイル等ともいわれる。
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[編集] 概要
アントニオ猪木はストロングスタイルを提唱し、「強さ」を表に出したプロレスを行い、「実力至上主義」のふれこみでプロレスを続けたが、ジャイアント馬場は「受けの美学」を提唱。即ち、プロレスとはシュートを超えたものであり、相手の技を全て受け、尚且つ勝つという主義主張の下で成り立っていると言い切っていた。
王道プロレスという全日本プロレスのキャッチコピーが急速にファンの間で広まった時期(1990年代)に興行のメインイベントを形作っていたのは俗に言われる四天王プロレスであった。王道プロレスと四天王プロレスは言葉こそ違えどプロレスの試合内容自体を指す場合には、ほぼ同義と考えられる。
四天王プロレスとは、大技の応酬と激しい消耗戦によるカウント2.9の攻防戦である。それまでの全日本プロレスでは、アブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガージェット・シンに代表される流血戦や凶器攻撃での反則裁定が横行しており、大物同士の対戦になると場外リングアウトドローなど不可解な裁定で終わる試合が少なくなかった。90年代の全日本では、これらを全て廃止。即ち、流血戦無し、反則無し、場外リングアウトさえ無し…という選手にとっては過酷な条件となった。また、地方興行での手抜きも一切許されなかった。そのため、1980年代までの全日本であれば見られたような、大物同士のドローは殆ど無くなり、実績のあるメーン級のレスラーがピンフォール負けを喫することも決して珍しいことではなくなった。凶器攻撃を排除したことから、ブッチャーやシンらはあまり全日本に呼ばれなくなり、スタン・ハンセンやテリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスら正統派の外国人レスラー、そしてジャンボ鶴田らが四天王の大きな壁となった。
どんなに体力的にきつい場面でもフェイスロックなどの絞め技で終わらせることを良しとせず、絞め技は相手の消耗を促進させる為と割り切り、大技によるグロッキー状態での3カウントフォールをとにかく目指す。また上記通り、相手の技を全て受け、尚且つ勝つというコンセプトの下で成り立っているものである。一部に新日本プロレスの長州力らに代表されるハイスパートレスリングと似通っているという主張もあるが、内容的には正反対ですらある(四天王プロレスほどの激しい消耗戦はそもそも過去には無かった)。
源流は、叩き潰すスタイルで長らく全日本マットで活躍したハンセンや、全日本離脱前の天龍源一郎、阿修羅・原ら「天龍同盟」がおりなす激しいプロレスに、ジャンボ鶴田・谷津の「五輪コンビ」を中心とした、極めてオーソドックスなスタイルの混在するファイトスタイルにある。また、1993年にウィリアムスが「殺人バックドロップ」と呼ばれる危険なバックドロップを敢行して以来、危険な垂直落下技が横行(「脳天受身」などと呼ばれた)。「技を軽視している」という批判もあったが、それは王道マットには「K点を越えた戦い」が求められたという意味でもあった。
馬場の立場・精神性をも内包しているという考え方に立つ場合、プロレスの試合内容だけでは語れない部分も出てくる。ちなみに長らく王道プロレスと接してきた和田京平は王道について「長くやっていることが王道」だと言っているほか、天龍は「形のないものが王道」だと語る。だが、リング内での精神的、肉体的な勝負や受けの美学に拘ったプロレスの試合形式、および試合に臨む態度そのものを王道プロレスと呼ぶと一般には認知されている(四天王プロレスの実践者達の試合後のコメントは控えめであり、競技者や求道者的立場に立った発言が多かった。またリング上で体現する事こそがプロレスラーの全てでありヒールやベビーなどのギミックを良しとしなかった点も大きな特徴といえる)為にレフェリー(和田京平)や四天王プロレス以前のレスラー(天龍)よりも、当時メインイベントを飾っていた試合の実践者(四天王)達こそが王道プロレスの体現者だという見方をとる場合が多い。
[編集] 歴史
1980年代までの全日本プロレスは、「アメリカンスタイル」と言われるプロレスを行っており、アブドーラ・ザ・ブッチャーやザ・シークに代表される「流血試合」が多く、またリングアウトドローなどの試合も多かった。しかし、1990年に天龍源一郎らがSWS設立に伴い移籍し、プロレス界もWWFをはじめアメリカンマットがTV主導の興行形態を確立し、大物外国人レスラーの来日機会が少なくなったことから馬場は「あいつらは俺の元から離れていった。だから、これからは俺のやりたいプロレスをやるよ」と言い、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の4人の若手を抜擢。プロレス四天王を結成させた。
2000年に全日本を離脱したほぼ90%の面々でプロレスリング・ノアが旗揚げされたため、全日本で王道プロレスを体現した選手は、残留した川田、渕正信、太陽ケアの三人のみとなってしまった。その後新日本から武藤敬司が登場(後に正式に移籍)、社長となると、武藤に代表される「パッケージプロレス」が主流となった。その為、「王道プロレス、四天王プロレスはノアにある」との声が多い。ノアも実際、三沢が受けの美学を提唱しており、和田京平も自著で認めている。ちなみにノアでは「王道プロレス」を標榜せず、キャッチコピーの類としては「自由と信念」という言葉が知られている。
2006年にはキングスロードが旗揚げされ、王道プロレスを謳っているが、馬場の継承者がいないことや旗揚げ戦で王道らしきものが見られなかったことから、非常に批判が多く、第2回直前で王道という言葉を使うことを今後は控える声明を発表したが、宮本和志が空気を読まないで「俺が王道だ」と叫んでしまったため、更なる批判を呼んだ。
そのキングスロード第3回大会(2006年4月開催)に、俗に「王道継承者」と言われる三沢光晴率いるノアの選手が出場することが決定(三沢も出場する)。キングスロード自体は王道への原点回帰を考えており、この大会にノア選手が出場して、どのようなエッセンスがキングスロードにもたらされるか注目されたが、結局キングスロードは同年7月1日を以って活動停止となることが決定した。
[編集] 王道プロレスを体現した主なプロレスラー
- ジャンボ鶴田
- 三沢光晴
- 川田利明
- 田上明
- 小橋健太
- 小川良成
- 菊地毅
- 秋山準
- 高山善廣
- 大森隆男
- スタン・ハンセン
- テリー・ゴディ
- スティーブ・ウィリアムス
- ダニー・クロファット
- ダグ・ファーナス
- ベイダー
- ジョニー・エース
- マイク・バートン
[編集] 関連項目
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