盛岡城
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盛岡城の石垣 | |
通称 |
不来方城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
三層 |
築城主 | |
築城年 |
1598年 |
主な改修者 |
南部重直 |
主な城主 |
南部氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣、土塁、堀、移築土蔵・門 |
位置 |
盛岡城(もりおかじょう)は日本の城。盛岡藩南部氏の居城である。国指定史跡。別名が「不来方城(こずかたじょう)」と一般に理解されているが、厳密には別の城郭である。
目次 |
[編集] 概要
盛岡城は盛岡市の中心部の花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川を天然の外堀としていた。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ朱塗りの橋が架かっている。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。
幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に三階櫓が建造され代用された。
白い花崗岩で組まれた石垣は見事で、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。建造物は明治初頭に解体され、現存するものは城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺に移築されたとされる門のみである。なお、移築門については城門であった確証は得られていない。
現在の盛岡城址は「岩手公園」(愛称「盛岡城跡公園」については後述)となっており、この城をこよなく愛した当地出身の宮沢賢治の詩碑と、石川啄木の
- 不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
と刻まれた歌碑が公園内にある。
[編集] 沿革
伝承に拠れば、平安時代には安倍氏を倒した清原武則の甥、「橘頼為」が領主であったと「陸奥話記」は伝える。この頃、不来方は「逆志方」とも表記されていた。
陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より天正18年(1590年)に当主の南部信直が10万石の所領を安堵された。九戸政実を倒し、天正19年(1591年)三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に本拠を移したが、九戸では北辺に過ぎるとの助言を蒲生氏郷や浅野長政より受け、文禄元年(1592年)に不来方の地を本拠とすべく整地を開始した。慶長3年(1598年)京都にあった信直は嫡男の利直に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城を開始した。
これより先、南部氏の臣下である福士慶善淡路が不来方の地に設けた「慶善館」が、即ち「不来方城」である。福士氏は南部氏が滅ぼした九戸氏と縁戚関係にあり、これを忌避した南部氏が不来方から福士氏を遠ざけたことにより、当地は南部氏の居城となった。
慶長4年(1599年)信直が病没し、翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵された。慶長年間(~1615年)には一応の完成を見た。利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。
築城と平行して城下町建設も行い、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とした。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」が架橋された。慶長14年(1609年)には「上ノ橋」に、慶長16年(1611年)には「中ノ橋」に、それぞれ城下町建設を記念して青銅の擬宝珠が付けられた。現存する「上ノ橋」の擬宝珠は国指定重要美術品の第一号、重要文化財に指定された。
盛岡城が本格的な完成を見たのは3代藩主重直の時代、寛永10年(1633年)である。翌寛永11年(1634年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とした。翌年の寛永12年(1635年)には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城。廃城令により明治7年(1874年)一般に払い下げとなり殆どの建物が解体移築された。
その後、旧藩主の南部家に払い下げとなり、明治39年(1906年)には岩手県に貸与され「岩手公園」として開園した。昭和9年(1934年)に城地は南部家より盛岡市に譲渡された。
昭和12年(1937年)国指定史跡となった。
[編集] 岩手公園の改称問題
平成18年(2006年)5月に盛岡市は岩手公園開園100周年を迎えるにあたり岩手公園の名称を変更すると発表したが、数日後に愛称を設定すると発表が変更された。しかし、盛岡市民にとっては突然の名称変更の話であったうえ、名称を公募せず市側が選んだメンバーによる愛称検討懇話会にのみ諮ったことで市民の不信を招いた。
8月に愛称を「盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)」と「盛岡お城跡公園(もりおかおしろあとこうえん)」の2者択一するアンケートを行い、「盛岡城跡公園」が賛成多数で決まり、9月15日の岩手公園開園100周年記念式典で正式に発表された。道路標識、案内板や文書などでは「盛岡城跡公園(岩手公園)」と変更するように進められており、正式名称では「岩手公園」のままだが実質的には名称を変更したのに等しい。
なお、先のアンケートで「盛岡城跡公園」が34%、「盛岡お城跡公園」が22%の賛成があったものの、愛称に反対の意見が29%あったため、市民に愛称が定着するには相当の期間が必要と思われる。