石井義信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - )は広島県福山市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者、元日本代表監督(1986年 - 1987年)。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
目次 |
[編集] 選手時代
福山葦陽高等学校を卒業後の1957年、東洋工業サッカー部に入部。日本サッカーリーグ(JSL)創設からの4連覇では相手のキーマンをマークする役をこなし黄金時代に貢献した。1965年と1967年には天皇杯優勝も経験した。1962年には日本代表に選出されるが出場は1試合のみである。
[編集] フジタ監督
1968年、広島出身の藤田一族の経営する藤和不動産が、藤和不動産サッカー部を新たに栃木県那須に創設。同時に東洋工業の名将・下村幸男と共にコーチ兼任選手として迎えられチームを強化、栃木県四部リーグのスタートから1972年僅か3年でJSL1部に昇格させた。1975年、フジタ工業サッカー部に名称変更東京移転と同時に監督に就任。超攻撃型なブラジル型のチーム作りを行い、マリーニョ、カルバリオ、セイハン比嘉、古前田充、植木繁晴、上田栄治らを率いて1977-78年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSLを初制覇すると1979-80年も優勝。1977年、1979年と天皇杯も2度制覇した。
[編集] 日本代表監督
こうした手腕を買われ1986年には森孝慈の後、日本代表監督に抜擢された。目標である翌年のソウルオリンピックは、最大のライバル・韓国が予選免除で大きなチャンスであったが予選まで1年しかないため、泥臭くても勝つ事にこだわる守備的なチーム作りを行った。森監督時代の中心選手・木村和司を外し、攻撃的選手は水沼貴史、原博実、手塚聡の3人だけ、都並敏史を守備的MFにして西村昭宏と並べ、奥寺康彦、中本邦治、加藤久、勝矢寿延、堀池巧の5人DF、GK森下申一とし、攻守のバランスは左サイドバックの奥寺にとらせた。
アジア地区最終予選では戦力的にやや上と見られていた中国との一騎打ちとなった。抽選により日程は10月4日広州、10月10日東京で行うという最高の日程となった。チームがまとまっていない中国にアウエーで引き分ければホームで勝てる、との確信を得たが、3ヶ月も先の日程にも係わらず、何と日本サッカー協会に「その日は東西対抗のテレビ放送が決まってるのでダメ」と言われた。「それならどこの田舎でもいいから試合をさせてくれ」と嘆願したが、「ばかもの!お前らの強化費用はどこから出てると思ってるんだ!」と一蹴され、やむなくホームは東京で10月26日に行うことになった。完全アウエーの中国で原の千金ゴールで勝利。しかし予想通り3週間でチームを立て直した中国にホームで敗れ、本大会出場を逃し辞任した。
長期政権を予定された森がサッカー協会と揉めて急遽の監督就任だったため、自分の思うチーム作りが出来なかったという気の毒な面もあった。本選出場を決めたら攻撃的なチーム作りをするつもりだったと言われている。後年Jリーグが出来た頃、「あの時、中国に勝ってたら日本のサッカーは、今もアマチュアのままだったでしょうね」と木之本興三に言われたという。
[編集] Jリーグとの関わり
森健兒がJSL内に開設したプロリーグ化を検討するプロジェクト(のち活性化委員会、開設準備委員会)に木之本らと共に中心人物として関わり、Jリーグ創設に尽力した。
代表監督辞任後は古巣のフジタ工業に戻り、Jリーグ発足後はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の取締役強化部長などを歴任。有力選手獲得などに手腕を発揮しベルマーレを一時期強豪チームにした。
2001年にはJリーグのFC東京でアドバイザー、2004年から日本サッカー協会の技術委員会委員に就任するなど、現在も後進の指導にあたっている。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
[編集] 参考文献
- 『日本サッカー史 代表篇』(後藤健生著)ISBN 4575294896
- 『空っぽのスタジアムからの挑戦』(平塚晶人著) ISBN 4093664811
|
|
|
|
カテゴリ: サッカー選手に関するスタブ項目 | 日本のサッカー選手 | 東洋工業サッカー部の選手 | 藤和不動産サッカー部の選手 | 日本のサッカー指導者 | サッカー日本代表監督 | 広島県出身の人物 | 1939年生