湘南ベルマーレ
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湘南ベルマーレ | |
原語表記 | 湘南ベルマーレ |
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愛称 | ベルマーレ |
クラブカラー | ライトグリーン、ブルー |
創設年 | 1968年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン2 |
ホームタウン | 厚木市、伊勢原市、小田原市 茅ヶ崎市、秦野市、平塚市 藤沢市、寒川町、大磯町 二宮町 |
ホームスタジアム | 平塚競技場 |
収容人数 | 18,500 |
代表者 | 真壁 潔 |
監督 | 菅野将晃 |
湘南ベルマーレ(しょうなんベルマーレShonan Bellmare)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称はベルマーレ平塚(ベルマーレひらつか)。
目次 |
[編集] クラブの概要
1994年にJリーグ加盟。ホームタウンは、神奈川県平塚市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、藤沢市、高座郡寒川町、中郡大磯町、二宮町の7市3町。ホームスタジアムは平塚競技場。練習場は平塚市の馬入ふれあい公園内にある馬入サッカー場、産能大サッカーグランドなどを使用している。チーム名はラテン語のベルム(Bellum、美しい)とマーレ(Mare、海)の2つの単語を合わせた造語。
[編集] クラブの歴史
[編集] 前身
前身は藤和不動産サッカー部→フジタSC。発足は、栃木県。日本リーグでは、1972年には1部に昇格し、1975年に、フジタ工業サッカー部に改称し、1977年には、初優勝し、以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回と強豪として鳴らした。
[編集] 1993年(JFL)
1993年に湘南ベルマーレとしてJリーグ準会員申請を行い(柏、磐田とともに適用第1号)JFL1部で優勝し、1994年にベルマーレ平塚とチーム名を改めてJリーグ昇格。元ブラジル代表MFのベッチーニョ、ミランジーニャの活躍が大きく、岩本輝雄、名良橋晃、野口幸司、名塚善寛など、後に日本代表にも選ばれる20代前半の若手との融合でJFLでは圧倒的な実力を誇った。 当時はホームタウンが1つの市区町村を原則としていたため、地域名である湘南のチーム名採用が却下され、本拠地の平塚市の名前を採用した経緯がある。また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで15000人以上収容等)を満たしておらず、その改修工事がネックとなって一時はJリーグ昇格が凍結される恐れがあったが、急遽平塚市が競技場のJリーグ規格への改修の予算を取り付けて昇格へとこぎつけた。
[編集] 1994年~1997年(黄金期)
昇格したこの年はサントリーシリーズこそ12チーム中11位と低迷したが、ニコスシリーズでは優勝争いをするほどの躍進を遂げる。最終的には2位に終わったが、同年の天皇杯全日本サッカー選手権大会では勢いそのままに優勝を成し遂げた。 さらに天皇杯優勝により出場権を得たアジアカップウィナーズカップでも優勝を果たすなど、Jリーグの強豪としての地歩を固めていき,若い選手中心の攻撃的サッカーは、多くのサポーターを魅了した。 翌1995年には後に日本代表の中心選手となる中田英寿が入団。 さらに1997年シーズンには、当時20代ながら長く日本でプレーし“日本代表の秘密兵器”と囁かれ出していたFWロペスと、“アジア№1リベロ”と呼ばれた韓国代表DF洪明甫が加入し、ベルマーレの黄金期の到来を思わせた。
[編集] 1998年~1999年(低迷期)
1998年のフランスW杯にはGK小島伸幸、DF洪明甫、MF中田、FW呂比須(ロペス改め)と日韓合わせて4人の代表選手を輩出。 しかしW杯終了後に中田がイタリア・ACペルージャへ移籍すると,時期を同じくして成績が低迷。 1999年には親会社だったゼネコン・フジタが経営の建て直しを図るためスポンサーから撤退したこともあって高給選手を次々放出してメンバーが手薄となり、その結果J1で年間成績最下位となりJ2降格。 前年に妹チーム的存在であったL・リーグのフジタサッカークラブ・マーキュリーが同じ様な境遇から廃部となったこともあり、ベルマーレに対してもチーム存続の危機が囁かれた。
[編集] 2000年~(J2)
そんな中,2000年にはチーム名をベルマーレ平塚から湘南ベルマーレに改称。 ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新して、新たなスタートを切った。
- 名古屋グランパスエイトから、ベテランGK伊藤裕二、清水エスパルスから、DF白井博幸、そして当時ブラジルのチームなどを渡り歩いていた前園真聖、チーム始動日に突然練習に現れ、契約に至った松原良香などアトランタ五輪世代の即戦力を補強し、1年でJ1復帰を目指したが2000年シーズンは8位と低迷。加藤久監督を今期限りで解任するとシーズン中に発表したフロントに不信感を持った前園、松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去る事になった。
- 2001年シーズンは元コロンビア代表パラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強、98年以来の復帰加入した栗原圭介とチームのエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。昨年と同じく8位に終わる。
- 2002年シーズンはパラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾、吉野智行らを中心としたJ2でも屈指の中盤を携え、また、前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に雷に撃たれ死亡すると言う訃報にチームが奮起し、5位と躍進。着実にJ1昇格に向けチーム力は上がっているものと思われた。
- そして、チーム創設10年目にJ1復帰と、大型予算で挑んだ2003年。監督にフィリップ・トルシエの右腕として元日本代表コーチを勤めていたサミアを迎えた。フラット3を組み込んだ3-5-2システムは開幕戦こそ機能したが、日本中に知れ渡っている作戦だけに弱点も露呈したまま、またパラシオスの怪我による離脱、期待されていた元プレミアリーグミドラスブラのハミルトン・リカルドの不調など序盤で躓き、なんと10位に低迷(サミアは途中退任、リカルドも「諸事情により」と言う謎の理由で途中帰国してしまった)。
- 2004年はFC東京よりアマラオを獲得も昨年と同じ場面を見ているかのように波に乗れず、監督山田松市に対する批判が集中。第4クールからは、アテネ五輪の女子日本代表ことなでしこジャパンの監督を務めた上田栄治が就任し、巻き返しを図ったが前年と同じく10位で終わった。
- 2005年シーズンの出だしは快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられてしまい、結局リーグ戦7位でシーズンを終え、明確な目標としていた昇格争いに食い込むことはできなかった。シーズン終了後、ベルマーレを支えてきたユースからの生え抜きのFW高田保則をはじめとした主力クラスを根こそぎ放出すると言う異例の大量解雇を行い、選手、サポーター共に辛く、悲しいシーズンになった(ちなみに、このシーズンに移籍していった主力クラスは他クラブの主力として活躍。サッカー誌のベスト11の常連になるなどの活躍を見せている)。
- 2006年シーズンは、昨年レンタル加入していたFW梅田直哉を浦和レッズから完全移籍させ、モンテディオ山形からMF外池大亮らを補強。外国人助っ人は2000年に浦和レッズで活躍した攻撃的MFのアジエルと、元モンテディオ山形のボランチMF、ニヴァウド、若いFWファビオを補強し、J1昇格を虎視眈々と狙うも、シーズン前より明確であった戦力不足が響き、シーズン中盤に8連敗(その期間に上田監督は辞任)、終盤にも6連敗するなど過去最低の11位に終わってしまった。
- 2007年シーズンからは、2年間ほぼフル稼働し、2006シーズン、チームMVPクラスの活躍をしたキャプテン佐藤悠介が本人の希望により東京ヴェルディ1969に移籍。昨年に続き城定信次、小林弘記など7人を放出。浅野哲也をトップチームコーチに招聘しFC東京からジャーン、モンテディオ山形から原竜太、清水エスパルスから斉藤俊秀、ドイツ3部リーグなどを渡り歩いた鈴木伸貴などを獲得し,また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻すなど、積極的な補強を敢行(ベルマーレのレンタル放出は、基本的に完全移籍をオプション事項に盛り込む為レンタル先から復帰させるのは、極めて珍しい)。過去最低成績に終わったシーズン終了直後から他チームよりも速くチーム作りを開始した。湘南の歴史=J2在籍年数と言う不名誉な時代を終焉させる為、ここ数年でもっとも厳しいシーズンと予想されるJ2リーグに挑む。
[編集] 欧州式のスポーツクラブの誕生
2002年には総合スポーツクラブとして特定非営利活動法人(いわゆるNPO法人)湘南ベルマーレスポーツクラブが設立され、ジュニア、及びジュニアユース部門を移管(ユースチームは第1種チーム(トップ&サテライト)とともに株式会社側が引き続き管理運営)した。また、ビーチバレーボールとトライアスロンのチームも併設している。2005年からはソフトボールチームも編成されることが決まった。(詳細後述)さらに、地元の大学である産業能率大学に共同講座を設けたり、リーガ・エスパニョーラのオサスナと提携するなど、従来のJクラブの枠にとらわれない活動に意欲的に取り組んでいる。現状では、J2中位から下位に甘んじている状況であり、あまり良い成績とは言えないが、地域密着を目指した地道な活動を続けているだけに、今後の期待を抱かさせる。
[編集] クラブハウス問題
湘南ベルマーレは、かつての親会社であったフジタから大神グラウンドを借り受けて練習場、並びにクラブハウスを運営していたが、2004年に松蔭大学が買い取って、同大学の湘南グラウンドとして利用されている。ただし2006年までの2年間は暫定処理としてベルマーレの練習にも使用されていた。
しかしその期限も2006年9月で終了となり、大神グラウンドのクラブハウスも利用できなくなった。10月から馬入(ばにゅう)ふれあい公園内の馬入サッカー場を練習場とし、事務所やクラブハウスも隣接地に移転した。
[編集] 日系ベルマーレ
2006年、日系ベルマーレ(CLUB NIKKEI BELLMARE)と言うチームを設立。 強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの二部に所属。 チーム顧問として、南米サッカー連盟のニコラス・レオス会長も名を連ねる。
設立時にはあくまでも『湘南ベルマーレの強化』を目的とする事を強調されていたが、国内のサポーターからはJ2の中位から下位にいる現在の状況打破を優先するべきとの声や、本来「湘南ベルマーレ」として掲げていた「身の丈にあったクラブ経営」の枠を超えているのでは(実際には湘南ベルマーレと日系ベルマーレは別組織となっている為、湘南ベルマーレが日系ベルマーレを運営しているわけでは無い)と、否定的な意見が多かった。
また、国内ではアルビレックス新潟Sと同じような組織と思われがちだが、実際にはかなり異なった組織となっている(ブルーとライトグリーンのチームカラーは同じだが、ユニフォーム、チームエンブレムも異なる)。2007年開幕時点での所属選手は全員パラグアイ国籍選手と、どちらかと言えば、プロ野球広島東洋カープのカープアカデミーの組織に近い。
将来的にはこのクラブで育てた選手を湘南ベルマーレに補強する事を想定しているが、現時点(2007年)ではJのレベルには及ぶ選手は出て来ていないと現地スタッフが語っている。 しかし、若くサッカーを純粋に楽しむ選手が揃っており(最年少15歳、最年長でも24歳)、将来的には化ける可能性もゼロでは無く、面白い試みであるとJリーグ幹部も期待の声を出している。
[編集] 中田英寿との親密な関係
日本を代表するサッカー選手として知られた中田英寿(1995~1998年途中まで在籍。2006年現役引退)は、このクラブでプロ生活をスタートさせ、今でも良好な関係を保つ。
獲得時、彼の希望であった海外留学を許可(実際にユヴェントスへ短期留学)し、1998年ワールドカップ終了時に快く彼を送り出したクラブの姿勢に彼は心から感激し、プロをスタートしたクラブとは言えわずか約3年半所属したのみの元所属チームへ支援を惜しまない。
- 1999年、大神グランドが台風の影響で水没。その後グランドは整備されたものの、J2降格危機の迫っていたチームにとって、暗い話題がまた1つ増えた事による不安がサポーターも含む関係者に蔓延する中、U-22日本代表の一員としてU-22韓国代表との親善試合前に帰国した彼は、ベルマーレに「大神で練習させて欲しい」と名乗り出た。偶然その場に居合わせたサポーターはもちろん、その日に契約内容が更新された西本竜洋が、新しく用意された自分のロッカーの隣で着替えをしている人物が中田と気づき、大混乱してその場に立ちつくしたと言う逸話もある。
- 2000年-2001年の2年間は年間5,000万円をポケットマネーから投資し、自らのHP nakata.netをユニフォームスポンサーとして提出。現役選手のクラブチームスポンサードは世界でも初であり、この2シーズンのレプリカユニフォームは海外でも人気を呼んだ。2001年以降も、サポーターにホームゲームチケットを提供したり、スタジアム広告に出資するなど、貢献を続けている。
- 2006年には同氏のデザインした特別なユニフォームを、ジュニアユースチームが着用(全国大会など特別な試合でのみ)する事になっている。詳細は後述の#特殊ユニフォーム参照。
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 | 総監督 |
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1992年 | 旧JFL1部 | 18 | 31 | 9 | 5 | 4 | 3位 | 古前田充 | ― |
1993年 | 18 | ― | 16 | 2 | ― | 優勝 | ― | ||
1994年 | J・サントリー | 22 | ― | 7 | 15 | ― | 11位 | ― | |
J・NICOS | 22 | ― | 16 | 6 | ― | 2位 | ― | ||
1995年 | J・サントリー | 26 | 43 | 14 | 12 | ― | 7位 | ― | |
J・NICOS | 26 | 22 | 7 | 19 | ― | 14位 | 古前田充/植木繁晴 | ― | |
1996年 | J | 30 | 36 | 12 | 18 | ― | 11位 | トニーニョ・モウラ/植木繁晴 | - |
1997年 | J・1st | 16 | 28 | 11 | 5 | ― | 4位 | 植木繁晴 | ― |
J・2nd | 16 | 21 | 8 | 8 | ― | 9位 | ― | ||
1998年 | J・1st | 17 | 20 | 8 | 9 | ― | 11位 | ― | |
J・2nd | 17 | 22 | 8 | 9 | ― | 12位 | ― | ||
1999年 | J1・1st | 15 | 9 | 3 | 12 | 0 | 16位 | 上田栄治 | ― |
J1・2nd | 15 | 4 | 1 | 13 | 1 | 16位 | 古前田充 | ― | |
2000年 | J2 | 40 | 43 | 15 | 24 | 1 | 8位 | 加藤久 | ― |
2001年 | 44 | 60 | 20 | 20 | 4 | 8位 | 田中孝司 | ― | |
2002年 | 44 | 64 | 16 | 12 | 16 | 5位 | ― | ||
2003年 | 44 | 44 | 11 | 22 | 11 | 10位 | サミア/山田松市 | ― | |
2004年 | 44 | 36 | 7 | 22 | 15 | 10位 | 山田松市/望月達也/上田栄治 | ― | |
2005年 | 44 | 54 | 13 | 16 | 15 | 7位 | 上田栄治 | ― | |
2006年 | 48 | 49 | 13 | 25 | 10 | 11位 | 上田栄治/菅野将晃 | ― |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
[編集] 個人別タイトル
[編集] ユニフォーム
世界的にも珍しいライトグリーンを採用したユニフォームは、サポーターのみならず、他のJリーグサポーター、また中田英寿の母国在籍唯一のクラブと言う事で海外からも人気・知名度がある。
1997年にはJリーグ史上初めて背ネームを採用。2000年、2001年は背スポンサーがnakata.netで「選手名と個人名で紛らわしくなるのでは」と言う理由(クラブが中田に敬意を表したと言う説もある)で見送られたが、2002年より復活。しかし2005年には再び採用を取りやめるなど、ネームを付けたり付けなかったりするチームもJでは唯一。
2005年にはアパレルメーカーPIKOをユニフォームサプライヤーに迎え注目を浴びた。ちなみに作製はエレアの代理店エレア・ジャポネスポーツ尚、2006年はA-LINE(エーライン・ジャポネスポーツ)が請け負っているが、双方ともその実態は株式会社カレッジリーグである。
各年代のユニフォームともデザインセンスが優れており、成績に関わらず毎年レプリカユニフォームはそれなりのセールスをあげている。 その為、シーズン中にスポンサーが変更、追加されても新スポンサーレプリカを発売したり、スポンサーマーキングの後付対応をしたりと他チームならば選手支給品のみの展開になりそうなユニフォームも発売する事で知られる(ただし98年リーグ戦のアウェイ、99年・02年のアウェイユニフォームはレプリカ未発売。その為この2種はコレクターの間でも高値で取引されている)。
ちなみに、背番号7のユニフォームに「HIDE」のネームを入れ、中田英寿在籍後も彼のネームナンバーをレプリカユニフォームにマーキングするサポーターも多い。
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[編集] チームカラー
- チームカラーはライトグリーン、ブルー、ホワイト。
2000年まではメインカラーがライトグリーンだったが、2001年よりブルーに変更(Jリーグ昇格前はブルーがメインカラーだった為、実質的には復活)。 何故ライトグリーンが採用されたか詳細は不明だが、94年昇格時にJリーグ側の要望により青のユニフォームの変更依頼を受諾した為である。詳しくは後述のユニホームカラーの問題参照。
[編集] ユニホームスポンサー
[編集] 過去のユニホームスポンサー
- DDI→KDDI(1994~2000 胸)
- 東ハト(1994~95 袖)
- フジタ(1996~99 袖)
- HOYA(1994~1999 背)
- nakata.net(2000~01 背)
- リズメディア(2001 袖,2002~04 胸)
- エイベックス(2002~04シーズン途中まで 袖)
- Bloomberg(2000 袖,2001 胸)
[編集] ユニホームサプライの遍歴
- 1992~93年(Jリーグ準会員) アシックス93年天皇杯のみベーシック(フェニックス)
- 1994~96年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はベーシック(フェニックス)
- 1997年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はカッパ・スポーツ(フェニックス)
- 1998~2002年 カッパ・スポーツ(フェニックス)
- 2003~04年 プーマ
- 2005年 PIKO(ただし、作製はエレア・ジャポネスポーツ)
- 2006年PIKO(ただし、作製はエーライン・ジャポネスポーツ)
- 2007年A-LINE(エーライン・ジャポネスポーツ)
[編集] ユニホームカラーの問題
1993年に翌年からのJリーグ参入を決定した時、チームはJ1(当時の名称)で使っていた青を基調としたユニフォームの使用を考えていたが、Jリーグ側から「青いユニフォームを使っているチームが多いので、別の色にして欲しい」との依頼があり(ジュビロ磐田がヤマハ時代の青から水色になったのもこの為)、メインカラーを世界的にも使用が珍しいライトグリーンを採用した。元々使われていた青はパンツやシャツの袖や裾などのワンポイントとして残った(実は意外と知られていないが、1997-1998シーズン前からの初代ミズノ製アウェイユニフォームにも、細いながらも青い縦線がワンポイントとして入っていた)。
しかし、2001年に当時のクラブ社長小長谷喜久男、元会長の河野太郎らチーム上層部が「J2という舞台と、湘南と名前の変わったチームで新たな出発をしよう」と言うことで青いユニフォームに戻した(当初Jリーグに参戦する事が決まった時に使用しようとしていた「湘南ベルマーレ」の名称が戻ってきた事で、また1からやり直そうと言う意味合いも込められているらしい)。ちなみに2000年に湘南ベルマーレがスタートした時にカラーを変更しなかったのは、ベルマーレがサプライヤーと交換期間を2年単位としていた為である。
この変更により、ホームカラーが青、アウェイカラーは白となった。ライトグリーンがホームユニフォームの首筋、ソックスの切り返しに残ってはいたが、アウェイユニフォームからはシャツ、パンツ、ソックスと黄緑が消えた(ちなみに97-98シーズンに使用された青と白のストライプを使用したカップ戦用アウェイユニフォームが、ベルマーレとして史上初めてライトグリーンを使わなかったユニフォームである。97-98リーグ戦アウェイには袖や細い縦線に、99-00モデルには肩筋の細いラインにさりげなく黄緑を採用している)。
しかし、既にサポーターの多くからはライトグリーンはベルマーレの象徴と認識されるようになっていた。そのためあまりに一方的なメインカラーの変更に反発が起き、過激な発言が公式webサイトの掲示板(現在は廃止)に書き込まれることもあった。このような動きを見たチームは、2003年よりアウェイユニフォームをライトグリーンに設定。ホームユニフォームにも、2001-2002モデルでは首周りだけだったライトグリーンの使用部分を増すよう、メーカーに依頼した。
しかし、ホームカラーが青、アウェイカラーが黄緑と、アウェイゲームの対戦相手によってはチームの区別が非常にしにくい、黄緑は(モノクロの)新聞紙上などでは淡いため見難いとの声がメディア、関係者などから上がった。
また、2006年に東京ヴェルディ1969がJ2に降格。平塚でのホームゲームはヴェルディのアウェイユニフォームが白の為問題はないが、ヴェルディのホームゲームではベルマーレがホームの青いユニフォームに白いパンツ、白いソックスと珍しい組み合わせを着用したが、それでも肩にかけてライトグリーンの走るベルマーレのユニフォームとヴェルディの緑のユニフォームが非常に識別しにくい現象が起きた。
Jリーグ側はこのような事態に備え3rdユニフォームの採用許可を出していたが、2006年に湘南は3rdを採用せず、各チームやJリーグより抗議を受けた。
この為か、2007年度よりブルーとライトグリーンを同じ比率で左右に分割し(ただし、それは胸の部分。背中は全面的にブルーを使っており、全体的にブルーの比率が多い)、パンツ、ソックスをブルー貴重とした色彩に変更。アウェイカラーをホワイトとした。ブルーのパンツがホームカラーとなった事で、実質2000年までの色彩が復活する事になった(2000年まではソックスがライトグリーン基調だったが)。
ちなみに余談ではあるが、2003年にプーマより限定発売されたライトグリーンのアウェイレプリカユニフォームは、発売初日(電話予約→オフィシャルショップかスタジアムで受け取り)にその大半を売り上げ、インターネットオークションでも高値で取引される物になったが、なぜか翌年に品番・型番もそのままに通常販売された。また、発表当初は湘南サポーター以外からも好評を博していたが、チームの低迷(このユニフォームを使用した2シーズンとも10位)と共に人気が低下。人気選手アマラオがチームにフィットできなかったのも影響し、移籍加入決定時には大量にあったアマラオモデルユニフォームの受注も失速、それに伴いレプリカの売り上げも目に見えて落ちていった。チーム史上初採用となった漢字胸スポンサー「産能大」モデルなどは発売数が通常のレプリカより少なめの生産枚数にも関わらず、アウェイモデルは店頭に多量の在庫を残してしまうなど、サポーター待望であったはずのライトグリーンを再採用した第1弾ユニフォームは、散々な結果になってしまった。
[編集] 特殊ユニフォーム
- アジアでのカップ戦では、胸がHOYAの物、リーグ戦と同様にDDIの物などいくつか種類がある。基本はベーシック製のカップ戦ユニフォームと同じデザイン(ただし袖にスポンサーは無く、背も個人名が入っている)。
- また95年の中国遠征時のみ、胸スポンサーがFujitaになっている物も存在する。
- アジアスーパーカップでは、胸にDDI、袖に日の丸がついたユニフォームを着用した。
- レジェンド・オブ・ベルマーレ
- 2003年、ベルマーレの誕生10周年を境に、ベルマーレ平塚・湘南ベルマーレにて100試合以上(9,000分以上)出場し、クラブの発展に貢献した選手を「レジェンド・オブ・ベルマーレ」と称し表彰。受賞者には在籍当時に付けていた背番号と名前をゴールドでプリントした、表彰したシーズンのホームモデルユニフォームが贈られる。
- しかし、正式な受賞者は2003年のベッチーニョのみ。同じく2003年に呂比須ワグナーが規定出場時間には届かないが、フランスワールドカップ出場に貢献したなどの特例を受けて受賞した。チーム誕生10周年である2003年の内に、他に田坂和昭、名塚善寛、岩元洋成、岩本輝雄、野口幸司などが表彰の候補にあげられていたが、スケジュールの関係やチーム名称の変更(ベルマーレ平塚から湘南ベルマーレにチーム名が変わったのに、平塚時代の選手だけ表彰するのはどうゆう事なのか、などの言い掛かりにも聞こえる批判などがあった)の関係で、いつの間にか賞自体がフェイドアウトしていってしまった。
- 2006年よりジュニアユースチームが公式戦の決勝トーナメントなど、特別な試合でのみ着用するユニフォームが存在する。
- ベルマーレOBの中田英寿氏が2004年にベルマーレから依頼された物で、デザインを同氏が監修、ウェア自体も彼がチームにプレゼントしている。
- これは、ジュニアユースの子供達に物を大切にして欲しい、そうした気持ちも育てていかなければならないと感じたジュニアユースコーチ達が、大学ラグビーの正選手のみに渡されるユニフォームにヒントを得て、"憧れの選手のデザインした物ならば、愛着が生まれ、大切に使うのでは"と思い立ち、中田氏にオファーした物。
- ビックウェーブのロゴが象徴的なシンプルながらも力強いデザインが特徴的。
[編集] チーム名変遷
- 1968年~ 藤和不動産サッカー部
- 1975年~ フジタ工業サッカー部
- 1993年~ ベルマーレ平塚
- 2000年~ 湘南ベルマーレ
[編集] サッカーチームの運営法人(株式会社湘南ベルマーレ)
現在の湘南ベルマーレは株式会社法人(社会人=プロとユースのサッカーチームを運営する側)とNPO法人(異競技交流・並びにサッカーのジュニアユース、ジュニアチームを運営する側)に分かれているが、株式会社法人は当初フジタが全額出資した「フジタスポーツクラブ」として運営されていた。その後1994年のJリーグ入りを機にフジタを筆頭スポンサーとして地元企業・団体などに出資を呼びかけて企業名をなくした「ベルマーレ平塚」(更に1996年からは「湘南ベルマーレ平塚」)に改めて運営された。
しかし長期不況が災い、フジタの資本提供も縮小され、チームも中田英寿ら主力クラスを他チームに放出するなど逼迫した経営が続き、1999年のJ1リーグでは戦力も大幅ダウンしわずか4勝(25敗1分け)の年間16位でJ2降格が決定。チーム存亡が取り立たされる。
その年のシーズン終了後、旧法人だった「湘南ベルマーレ平塚」と新法人である「湘南ベルマーレ」の株式等価交換が行われた。これは一度フジタが全額出資して新法人を設立した上で、その株式を平塚市などホームタウンの自治体や企業・団体・市民などで構成する株主に譲渡し、その代わり旧社の株式をフジタが買い取った上で会社を清算(解散)させるというものだった。旧社は清算後フジタの会社再建の資金に当ててベルマーレの経営から完全に撤退。そして市民参加型の総合スポーツクラブ作りを目指す新生湘南ベルマーレが誕生した。
Jリーグは1999年度からホームタウンをそれまでの原則1市区町村から複数の市区町村にまたぐ「広域ホームタウン制度」が認められ、新法人の設立をきっかけとして平塚市を含む湘南地区10市町村に拡大することになり、それに伴い登録チーム名称も1993年以来7年ぶりに地域名である「湘南」が復活した。
当初は元ジュビロ磐田の小長谷喜久男が社長、会長に衆議院議員の河野太郎が就任。最初はサッカーの全てのカテゴリーの運営のみでスタートしたが、2002年からJリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、法人を株式会社とNPOの2つにし、そのうちの株式会社法人はJリーグを戦うプロ(社会人)サッカーチーム(トップ&サテライト)と、それに付随する高校生世代を対象としたユースチームの運営に専念するようになった。
[編集] 異競技交流
湘南ベルマーレでは2002年からJリーグ百年構想に則り、地域密着型の総合スポーツクラブ文化の確立を目指してNPO(特定非営利活動法人)の「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を編成しており、サッカー(ジュニアユース、ジュニア)を株式会社側からNPO法人側に移譲して活動している他、ビーチバレー、トライアスロンのチームを編成。日本を代表するその競技のスペシャリストが選手として登録している。2005年からはソフトボールチームも編成することになった。
2007年9月よりスタートするフットサル全国リーグに参戦する湘南ベルマーレフットサルクラブもスポーツクラブに編成する事に。 このフットサルチームは、神奈川県下の強豪チームP.S.T.C LONDRINAのトップチームをベルマーレが傘下とした物。
詳細は「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を参照。
また、プロ野球横浜ベイスターズのファームチームである「湘南シーレックス」とも連携している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
湘南ベルマーレ - 2007 |
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1 伊藤友彦 | 2 斉藤俊秀 | 3 ジャーン | 4 村山祐介 | 5 中里宏司 | 6 田村雄三 | 8 坂本紘司 | 9 梅田直哉 | 10 アジエル | 11 石原直樹 | 12 サポーター | 13 鈴木将太 | 14 永里源気 | 15 北島義生 | 16 植村慶 | 17 冨山達行 | 18 財津俊一郎 | 19 外池大亮 | 20 原竜太 | 21 尾亦弘友希 | 22 松本昂聡 | 23 森谷佳祐 | 24 加藤望 | 25 金永基 | 26 鶴見聡貴 | 27 濱崎陽平 | 28 中町公祐 | 29 鈴木伸貴 | 30 山口貴弘 | 31 猪狩佑貴 | 32 柿本倫明 | 33 林慧 | 34 川股要佑 | 35 名良橋晃 | 監督 菅野将晃 | クラブ | |
Jリーグ 2007 | |
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J1 | |
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ |
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J2 | |
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖 |
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過去に存在したクラブ | |
横浜フリューゲルス | |
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