福田氏
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福田(ふくだ)氏は、日本の氏族であり、日本全国に分布している一族である。 主なものとして下記の4流がある。
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[編集] 平姓福田氏
歌人である平兼盛の子孫が平安時代半ばに九州の肥前国福田荘を領して土着後、その地名を名字としたのが九州平姓福田氏の始まりである。
元寇にも現地の在地勢力として参加し、それ以降の南北朝の騒乱にも参加。南北朝の対立で大村氏と同じ南朝方の雄であった菊池氏の配下になった一族もおり、福田氏の庶流は九州全域に広がっていくのである。
戦国時代には福田荘に残った嫡流の一族が福田の地に福田城を築き、福田兼次、福田忠兼、福田兼親と続き、領主としての地位を確保するのである。福田忠兼は息子の福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。
1565年(永禄8年)にはポルトガルの定期船が来航し福田浦に入港した。福田は長崎湾の外側にあり、外洋に面した小さな漁港であったが、初めてポルトガル船を迎え、活気を呈し教会も建設され、各地からキリシタンらが集まってきた。大村純忠も幾度かこの地を訪れて、キリスト教の神父達やポルトガル船の司令官とも会談している。
同1565年に南蛮貿易の権益を巡って松浦氏の襲撃を受けるが、忠兼はこれを撃退した。
江戸時代になると忠兼の子・福田兼親やその子孫は大村藩に仕えている。
庶流は肥後菊池氏に仕えて、南朝側として数々の戦に参加している。しかし戦国時代となり当主の菊池義武が大友義鎮に謀殺され菊池氏が滅びた後は、在地領主として大友氏に仕え、筑後国に進出した高橋氏の配下に付けられたようである。
ただ、高橋長種が1549年に死去した際に、大友義鑑に養子を依頼した重臣の中に福田氏も見えることから、大友氏の勢力が肥後に伸張していった初期に大友氏に従ったか、または別系統の福田氏が以前より高橋氏に仕えていた可能性がある。
1586年の岩屋城の戦いにおいて福田民部少輔が虚空蔵砦の守備に就き、島津軍の猛攻により城将・高橋紹運と共に討死している。
大友吉統改易後、福田氏の一族は元の所領である肥後に戻り、帰農している。
[編集] 児玉党福田氏
児玉党の流れを汲み、関東全域に分布している。
福田氏は古河公方足利氏に仕え、古河を根城に流通活動を展開する一方で、古河公方御料所の代官を務めている。後に豊臣秀吉の配下とされる福田惟康が関ヶ原の戦いの後に武蔵国北部に土着し、福田陣屋を築いている。
上野国の福田氏は、関東管領山内上杉氏の家臣である倉賀野行政に仕え、「倉賀野十六騎」として倉賀野城を守った。群馬県出身の福田赳夫元首相や福田康夫元官房長官はこの流れの福田氏である。
[編集] その他の福田氏
岩手県の遠野市にも福田姓の一族がおり、安芸国から流れてきた一族とも言われている。江戸時代に遠野南部氏に仕え、新参者ながらも家老職として遇せられ、遠野南部氏の国政に辣腕を振るった福田蔵人なる人物もいる。遠野には菊池姓も非常に多く、九州地方との繋がりがあったとも考えられる。
岡山県児島にも福田姓と菊池姓が多い地域があり、菊池氏と福田氏が協力して移住したと思われ、菊池氏と福田氏の強い繋がりが伺える。