舎人村
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舎人村(とねりそん)は、かつて鳥取県の中部東伯郡に属していた村。
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[編集] 概要
1952年(昭和27年)当時の人口は1847人、世帯数330、面積13,25k㎡。1889年(明治22年)10月に河村郡内(当時)の藤津・宮内・野方(のかた)・白石・方地(ほうじ)・漆原・北福の7ヶ村が合併して成立した。隣接する松崎村が近隣地域の商工業の中心であったため、あまり商工業が盛んにならなかった。一方、農業は舎人川流域に位置していることから盛んであり、村内に広大な水田地帯を形成していた。また、山の斜面を利用してこの地域の特産品の梨の栽培が広く行われており各地に出荷されていた。1953年(昭和28年)4月1日、東郷松崎町・花見村と合併、東郷町が成立し消滅した。
[編集] 村名の由来
この地域は古来、(注)有力な首長がいたとされ一族より天皇や皇族に雑用人として仕える舎人を出したことが由来とされている。また、平安時代の和名抄には「伯耆国河村郡舎人郷」とあり、江戸時代の「元文2年村分帳」は舎人村全域と泊村の原が舎人郷と記されており古来よりこの地域は「舎人」と呼ばれていることが分かる。
- (注)舎人地区には平安時代以前の創建とされる伯耆国一宮の倭文神社、奈良時代の野方・弥陀ヶ平(みだがなる)廃寺跡があり、また、この地域に限らず東郷池一帯には古墳が数多く分布していることから東郷池周辺には古代より中央の大和朝廷と何らかのつながりのある有力首長がいたと推定されている。
[編集] 歴史
- 1889年(明治22年)10月
- 町村制実施により成立。
- 1890年(明治23年)1月
- 舎人村警察官駐在所が設置される。
- 1896年(明治29年)4月
- 1915年(大正4年)12月11日
- 倭文神社の境内で経塚が発掘される。
- 1920年(大正9年)4月15日
- 伯耆一ノ宮経塚からの出土品が国宝に指定される。
- 1925年(大正14年)1月20日
- 舎人村婦人会が設立される。
- 同年12月
- 舎人園芸組合が設立される。
- 1934年(昭和9年)
- 舎人尋常高等小学校で学校給食が開始される。
- 舎人園芸組合、梨の共同選果場を新築する。
- 1935年(昭和10年)12月24日
- 伯耆一ノ宮経塚が国の史跡に指定される。
- 1944年(昭和19年)1月
- 舎人村農業会が発足する。
- 1947年(昭和22年)4月29日
- 舎人村・松崎村・東郷村の組合立東郷中学校が開校する。
- 1948年(昭和23年)4月
- 舎人村農業協同組合が設立される。
- 1952年(昭和27年)11月1日
- 舎人村教育委員会が発足する。
- 1953年(昭和28年)4月
- 東郷松崎町・花見村と合併、東郷町が成立し消滅する。
[編集] 参考文献
- 東郷町誌
- 角川日本地名大辞典31鳥取県
- 故・谷田亀寿氏著 「舎人村郷土史論 上代篇」(昭和9年11月)