船原長生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
船原 長生(ふなはら ちょうせい、1953年12月10日 - ) はアメリカ在住の日本人の映画監督、映画プロデューサーである。兵庫県加古川市出身。戸籍上の名前は「ちょうせい」ではなく「おさお」となっている。「ちょーせー、チョーセー、チョーセイ、チョウセー、チョウセイ」など、日本語表記は異なる。
目次 |
[編集] 来歴
1970年代、1980年代にニューヨークで活躍したパンクロックグループ。プラズマティックスのオリジナルベースプレイヤー。村上龍の原作トパーズの映画化された東京デカダンスのプロデューサー。
1992年度のサンダンス映画祭のグランプリ受賞作のアレクサンダー・ロックウェル監督の「イン・ザ・スープ」のエグゼクティブ・プロデューサー(日本人映画プロデューサーでは初めて)などを務めた。
現在(2005年)、ジャズ・ピアニストの菊地雅章氏のドキュメンタリー映画、および自主制作の長篇本編作品を数本製作中。
[編集] 略歴
[編集] 1969-1975
- 兵庫県立加古川東高等学校に在学中、高校2年生の時、三ノ宮で中島らも氏と知り合う。ラジオパーソナリティの谷五郎氏と同じクラス
- 1974年、日本大学芸術学部映画学科に在学中に渡米、留学生としてシラキューズ大学在籍
- 1975年、一時帰国。沖縄海洋博で通産省管轄の海洋文化館に勤務。三木首相の同時通訳などのキューレイター及びコンピューター制御のマルチ映像(現てぃんがーら・シアター)のプログラマーとオペレイターを兼ねる
[編集] 1976-1980
- 1976年、日本大学芸術学部映画学科卒業。再び渡米、サンフランシスコ・アカデミー・オブ・アート、サンフランシスコ・アート・インスティチュート在籍
- 1977年、ニューヨーク大学大学院 Graduate School of Arts and Science,(Cinema Studies) 修士課程在籍
- 1978年、ニューヨーク大学大学院に在籍中にパンクロックバンド、プラズマティックスを始めニューヨーク大学大学院中退
- 1979年、プラズマティックスの全米ツアーに参加する。ヨーロッパ・ツアーに参加。ミュージシャンで永住権(グリーンカード)獲得、日本人ロック・ミュージシャンとしては歴代2人目
- 1980年、プラズマティックス脱退
[編集] 1981-1985
- 1981年、集英社ニューヨーク支局の支局員を始め、村上龍氏、北方謙三氏との交流を始める。彼らの小説の中の登場人物のモデルにもなる
- 1982年、ブロードウェイ・ミュージカル・Rock 'N Roll! The First 5,000 Yearsのフィナーレを作曲。日本人では初めてのブロードウェイ・ミュージカルでの作曲。日本人のブロードウェイ進出の足がかりとなる
- 1983年、音楽プロモーション・ビデオ(PV)制作会社R-3プロダクション設立
- 1984年、CBSコロンビア・レコードとソロ・アーティスト契約
- 1985年、CBSコロンビア・レコード契約解約。ニューヨーク市コート・エンプロイメント・プロジェクト(CEP:ニューヨーク市の裁判所で判決の降りた少年の再教育を行う非営利団体)勤務。R-3プロダクションで映像製作の有志が集まり、ウィークエンド・プロジェクトで短編映画のシリーズ制作を始める
[編集] 1986-1990
- 1986年、ブロードウェイ・ミュージカルでヒット中のタンゴアルヘンティーノのアルゼンチン・タンゴを日本に紹介をする。
- 1987年、映像制作会社Funahara & Associates, Inc.を設立。劇場用本編映画製作を開始する。コネチカット州のベストロン映画製作会社の資本提携会社Integrated Resources Inc (NYSE)のコンサルタントに就任
[編集] 1990-2000
- 1991年、ブロードウェイ・ミュージカルでトニー賞にノミネートされたタンゴアルヘンティーノ(1986年度ノミネート)とBlack and Blue(1989年度ノミネート)の演出家のクラウディオ・セゴビア氏とへクター・オレゾリ氏演出によるキューバ音楽とダンスのレビュー、ノチェ・トロピカーナのエグゼクティブ・プロデューサーを務める。日本で再びキューバ・ブームを作る切っ掛けとなる。
- 1996年、Cable News Network fn (CNN Financial News Network)の人気番組のピナクルのコンサルタントを勤める。世界でも初めての試みであった、ブロードバンドのインターネットを利用した映像ストリーミングメディアもインハウス・プロデューサーとしてpseudoサイトから映像を配信
- 1997年、Funahara & Associates, Inc.売却
- 2000年、米国日系最大手のプロダクション会社・モーション・プラネットのシニア・プロデューサーに就任。Digital intermediate (DI)の開発に関わり、ハリウッドの新しいDI規格に参入する。
[編集] 2000-2005
- 2005年、米国映画芸術科学アカデミー公認の日本語のブロガーとなる。
DCI (Digital Cinema Initiatives, LLC)の会員、ICG (International Cinematographers Guild Local 600/アメリカ映画撮影監督協会)の会員、The Society of Motion Picture and Television Engineers (SMPTE)米国映画テレビ技術者協会の会員などを努めている。
[編集] 作品歴
[編集] 劇場映画:
[編集] プロデューサー - 映画作品
(1980年) (1990年)(2000年)
- Sons (1989) (製作総指揮)
- The Houseguest (1989) (プロデューサー)
- ラッフルズ・ホテル (1989) (アソシエイト・プロデューサー)
- デッドロック (1990) (プロデューサー)
- イン・ザ・スープ 夢の降る街 (1992) (製作総指揮)
- トパーズ (1992) (プロデューサー)
- Dark Voices (2001) (プロデューサー)
[編集] 監督 - 映画作品
- Dark Voices (2001)
そのほか劇場映画作品以外に短編映画、音楽ビデオ、テレビCMなど日本、欧米での製作は200本以上の作品に及ぶ。
[編集] 製作 - 短編映画
(主な作品) (1980年) (1990年)(2000年)
- Unbeatable (1985)
- THE HOUSEGUEST (1986), featuring John Cale and Zoe Tamerlaine.
- ニューヨークシティ・マラソン (1986), 村上龍原作・脚本.
- CACOPHONY, LONESOME HITMEN FROM MONTANA for German TV ZDF (1988)
- COCKROACH ALARM IN SPANISH HARLEM(1987)
- Dead End (1992)
- WAR (1999)
- WIDGET(1999)
[編集] 監督 - 音楽ビデオ
(主な作品)
- 逃げるんだベイビー(1983)(忌野清志郎RCサクセション)日本で初めての本格的な海外ロケのミュージック・ビデオ
- I AM SIAM (1984) American Video Awards受賞
- Run-D.M.C.(1985) MTV Special Event at the Rits, New York Cityでのディレクター。ラップミュージックをメインストリームの音楽として紹介し、現在のラップブームの足掛かりをつくる。
[編集] 俳優 - 映画作品
(1980年) (1990年)(2000年)
- だいじょうぶマイ・フレンド (1983)
- デッドロック (1990)
- イン・ザ・スープ (1992)
- 13 Moons (2002)
[編集] その他 - 映画作品
(1990年) (2000年)
- Hsi yen (1993) (soundtrack supervisor)
- Somebody to Love (1994) (special thanks)
- Американская дочь (Russia) (1995) (production consultant)
- Kyoko (2000) (production consultant)
- 13 Moons (2002) (still photographer)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の映画プロデューサー | 日本のミュージシャン | 1953年生 | 日本の映画監督